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帝国主義論を学び得た幸運

 投稿者:錦之介  投稿日:2009年 3月30日(月)01時16分7秒
  萬谷迪著『世界開発と南北問題』八朔社2004 は、レーニン帝国主義論を現代世界に発展的に適用した名著だと思います。佐々木建氏の書評を転載します。
 http://www.focusglobal.org/leading/pdf/kiog-02.pdf
私自身の見解はもう少し勉強してから投稿します。
 


誕生日は二・二六事件で命日はフランス革命

 投稿者:市民  投稿日:2009年 3月 2日(月)23時49分23秒
  http://pwvx.hp.infoseek.co.jp/0202/9/199.html

社会党委員長の名前はA級戦犯の名前

漫画の国だった。
 

世界恐慌の拡大・深化はグローバルな社会革命へ向っている 改良主義を止めよ

 投稿者:たつまき  投稿日:2009年 3月 1日(日)21時28分17秒
    不破哲三は「対外侵略をしない独占資本主義は帝国主義ではない」と主張して、レーニンの「帝国主義とは
独占資本主義のことである」との再三の指摘に反対して、第2インターの社会民主主義の領袖K.カウツキー
の見地に移行して、日本帝国主義の現存を否認し続けている。不破は対外侵略は独占資本主義の本質的特徴の
1つであることから、大衆の目をそらして、帝国主義を美化した。
 しかし所謂先進資本主義諸国はイラク、アフガン侵略・占領に参加している。日本も共犯者だ。
 だから不破の理論は破綻している。
 不破が「市場経済の社会主義」論を主張、党綱領に書き込んで、共産党を体制内化し、世界金権奴隷支配者
フリーメーソンの指導部イルミナティに事実上協力して、社民党に移行したのは、天皇制、安保、自衛隊の容認と
軌を一にしたものである。
 前代未聞の世界金融・経済恐慌の拡大・深化で、G7蔵相会議の文書が指摘したように、英国、オランダなど
西欧7ヵ国は国家破産の瀬戸際にある。 世銀総裁が最近発表したように、中・東欧は国家破産寸前だ。これは世界
大恐慌の新たな震央になると言明した。南欧も含めて中・東欧。南欧14ヵ国が国家破算に向かっている。
 ヒラリーが頼りの中国に大量の米国債購入を懇請したが、内需に資金が要ると断られた。これで、失敗した景気
対策と共に、対外的にも米帝経済救済は失敗した。米国経済崩壊は決定的になった。
 世界資本主義の全般的危機の史上最大の深化だ。これは、不可避的にグローバルな社会革命に向かっている。米
国では、オバマの地元シカゴで、CNBC TVのレポーターが世界に先駆けて第2米国革命を宣言した。
 日本でも体制内改良主義を止める時だ!
 詳細は: http://gold.ap.teacup.com/tatsmaki/60.html

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私説公開

 投稿者:石垣眞人  投稿日:2008年10月13日(月)15時28分9秒
  「平成の黙示録」という表題の私説を公開しています。
http://makoto-ishigaki.spaces.live.com にアクセスしてください。
 

【総括】2 対象認識と主体意識

 投稿者:*鬼薔薇  投稿日:2008年 2月15日(金)22時54分59秒
  マルクスの歴史観では、資本家階級と労働者階級の「中間」に位置する社会層は近代以前の社会構造の残存物であり、資本制の発展に伴ってますます二大階級へと分化を遂げていくはずのものとして考えられておりました(自営農民、独立自営業者、等々)。けれども、独占段階に入った資本制のもとで、これら伝統的なものがあらたな基礎の上に再生産され再編成されると同時に、それと異なる新しい性格の「中間層」が姿を現すこととなります。

先に注目した「社会化」との関連で第2章「銀行とその新しい役割」に引用されたシュルツェ=ゲーヴァニッツの記述と、それに対するレーニンのコメントを振り返りましょう。

「『三〇年前には、自由に競争しつつある企業家たちが「労働者」の筋肉労働の領域に属しない経営的労働の十分の九をおこなっていた。ところが今日では、事務員たちがこのような経営的頭脳労働の十分の九をおこなっている。銀行業務はこの発展の先頭に立っている』。シュルツェ=ゲーヴァニッツのこの告白は、つまるところ、最新の資本主義、すなわち帝国主義的段階にある資本主義はなにものへの過渡であるか、という問題に通じる」(岩p.66-7/国p.52/濤p.65)。

ここで着目された「事務員」とは、「労働者(ブルーカラー)」と区別される「職員(ホワイトカラー)」層――要するに「サラリーマン」――にほかなりません。第二次大戦後の日本では、「労働者(工員)」も「職員」も等しく「従業員」もしくは「社員」として遇されるケースが大半のためややイメージしにくいかと思いますが、欧米でも途上国でもこのふたつの層の区別は明確でございます。たとえば「賃金」というのは「労働者(工員)」に支払われるもので多くは週払いなのに対し、「職員」に支払われるのは「賃金」ではなく月払いの「俸給(サラリー)」ですね(日本でも戦前はそのような仕組みだったと仄聞いたします)。“なにものへの過渡であるか”というのはもちろん「生産の完全な社会化」=すなわち「社会主義」への移行を含意した表現であり、ここでレーニンは、独占段階に達した資本制においてもはや「企業家=資本家」たちが生産の組織管理にとって不要な存在と化しつつあるとの時代認識を示していることになりましょう。マックス・ウェーバーなら「官僚」というカテゴリーを持ってくるところでしょうし、徴兵制の上に立つ近代軍隊についても、「兵士」に対する「将校」という層が職業的に成立いたします(ウェーバーは近代軍隊組織を「官僚制」の一類型として捉えております)。

こうした“経営的頭脳労働”にたずさわる(つまりマネージメント能力を備えた)「事務員・職員・官僚」層の役割は、ロシアでは革命後の組織運営における「専門家」問題としてあらためて重要な意味を帯びて登場するテーマになりますが、ここでは、レーニンが独占段階に至った資本制のもとでの社会的な階層分化をはっきりと射程に入れて社会主義への移行を構想している点に着目しておきたいと存じます。

カウツキーに代表される第2インター・マルクス主義は「二大階級への分化」という古典的認識を墨守してきたところでしょう。それに対して実は社会層はより複雑な分化を遂げているという事実にいち早く注目したのがかのべルンシュタインであったこと、広く知られているとおりでございます(『社会主義の諸前提と社会民主党の任務』)。レーニンもまた、別な視角から、同じこの事実に着目していたこと、したがってカウツキー的な正統派を「中央派」と名づけたのも、単なる“政治路線”のスペクトルにおける位置取り以上に本質的な「階級」認識にかかるところであったこと、それをレーニンの政治思想の位置として、ここでは確認しておきたく思うところでございます。
※この点に関連して、かつて(ローザ・ルクセンブルクへの関心を軸に)蘇丹・加里耶夫さんからご指摘があり、亀嶋庸一著 『ベルンシュタイン : 亡命と世紀末の思想』に触れての当時の関連議論を[資料室]に収録してございます。

先に次のように述べました。
“当の「階級」〔プロレタリアート〕自体が戦争を契機に歴史的な分解=分裂を生じている現実を見据えた記述は、「労働者階級」がもはや第二インタナショナル時代のような即自存在(「在る」ものとしての「労働者」の総体)として語りうるものではなくなっている現実への冷徹な自覚に貫かれております。レーニンがしばしば用いる「自覚したプロレタリアート」の“自覚”もそうした主体の形成という課題を提示した言葉でしょう”。

ただし、とつけ加えておかねばなりませんが、この“自覚した”という形容詞が実際に指し示す内容は、必ずしも明瞭ではございません。“階級意識ある”と言い換えても同じことで、その「階級意識」なるものが誰によって産出され誰によって体現されるのか、そこには「主観性」へ転落する限りない深淵が暗い穴を拡げていること、ブハーリン、ピャタコフらいわゆる「左翼共産主義者」や短命に終わったハンガリー・ソビエト権力崩壊後のルカーチの思想と行動が当時すでにその危うさを表出しておりました。レーニン自身は独特の現実感覚をもって主観主義への転落に歯止めをかけていたことと思われますけれども、そうした転落防止装置を組織のものとできたのか、考えると疑問は深まらざるをえません。これは、後の「スターリン主義」の思想構造を考える上でも無視できぬ要素ではないかと存じます。実践的にはそれは、コミンテルン4回大会以後の「統一戦線」問題について、その“階級的基礎”の検討を要求するでしょうし、諸「民族主義」運動の評価軸を問い直すものでもございましょう。それは「階級」の存在を原理論ではなく実体論のレベルで検討するという(レーニンが保持した)観点を貫くことにほかなりません。凡百の「階級意識」論はこの実体レベルでの現実認識から眼を閉ざして観念の空間に自閉するとき、際限のない主観主義へ転落するのだと思うのでございます。20世紀の左翼革命主義における「レーニン主義」の強力な呪縛を解除しようとすれば、このあたりに思考の腰を据えてかかるべきではないのでしょうか。

「階級」問題は「大衆」問題と関連し、すでに50年代リースマンの『孤独な群集』で話題を呼び、その後の「大衆社会」論へ引き継がれてまいりました。「民主主義」の議論もそこであらたな地平に立ったこと、松下圭一氏らの仕事に現われていたかと存じます。この読書会でも、「帝国主義」問題を「大衆社会」論的な視点から捉えなおしてみてはとの刺激的な提起があったところで、大きなテーマのひとつとして考えてまいりたく存じます。その際問題になるのはやはり「国家」でございましょう。ベルンシュタインにおいても左翼系においても、「階級」は「国家」という枠組みで考えられてきたのではなかったでしょうか。それにはそれだけの時代的背景もあったはず。そして現代、この「国家」的枠組みとの関連で「階級」や階層分化を捉え直すべきところにわたしたちはいるような気がするのですね。

それにしても、次の文言は今日、重たい意味を、いえ、暗澹たる気分を覚えずに読むことはできません。

「この外皮は、その除去が人為的にひきのばされるばあいには、不可避的に腐敗せざるをえないものであり、また、比較的長いあいだこの腐敗状態をつづけることがありうる……にしても、しかし結局はかならず除去されるであろう」(前出)。

まったく、“比較的長いあいだ”どころかなんと延々たる時間“ひきのばされ”てきたものでしょう。そして“不可避的に腐敗せざるをえない”、その「腐敗」の広がり深まる事例は、行政から金融機関そして大小の民間企業、ビジネスからサービス、地域社会から家庭に至るまで、枚挙にいとまがないほど全「社会化」していること、毎日の新聞紙面に事例を事欠くこともございません。「外皮」を剥ぎ取ったはずの「社会主義」自身が別の“外皮”の内に“腐敗”し、あげく無残な“崩壊”を遂げてしまいました。かつてカウツキー的な教条マルクス主義が「修正主義」と「革命主義」へ引き裂かれたように、「レーニン主義」もまた20世紀後半の歴史過程のなかでちぢに引き裂かれてまいりました。それどころか、「バーゼル宣言」が示した「戦争と平和」の価値体系そのものが解体し拡散を遂げているのが現代にほかなりません。そのように客観的事態が進んだことこそ、ここ20年ほどの「新自由主義」の跳梁の条件であり、またその新たな事態に対する政策路線としての「市場原理主義」の根拠をなしていたと存じます。

このとき、古い価値規範へ回帰するのでなければ何を新たに切り開くべきなのか、亡命地にあってこの書を書き綴った原著者の胸に渦巻いていたであろう熱い意志に思いを馳せつつ考えてみるべきところでございましょう。「死滅しつつある資本主義」を歴史のなかに埋葬する仕事は、かかって今を生きる人間の未来への意志にこそあるのですから。
 

【総括】1 「革命の歴史認識」

 投稿者:*鬼薔薇  投稿日:2008年 2月 4日(月)21時06分39秒
編集済
  先の解読レポート最終回で、「革命の歴史認識としての『帝国主義論』」と申しました。

「革命の歴史認識」とはどういうことか。それは単なる対象認識ではなく、主体の契機を内に孕むものであることを意味いたします。では『帝国主義論』はそれをどのように表出しているのか、先の引用文に立ち返って考えてみましょう。

「われわれの目の前にあるものは生産の社会化であって、けっしてたんなる『からみあい』ではないこと、私経済的および私有者的諸関係は、もはやその内容に照応しなくなっている外皮であって、この外皮は……(中略)……かならず除去されるであろう」(第10章第3段切り、前出)。帝国主義は「死滅しつつある資本主義、社会主義へ移行しつつある資本主義である」(「帝国主義と社会主義の分裂」、前出)。

この“「外皮」の除去”すなわち「社会主義」への移行は決して自動的に進む過程ではなく、人間の意志的行為なしにはありえません。あえてものごとの「純経済的」側面に限定された『帝国主義論』の叙述は、しかしそれ自体が(しばしばそう扱われるような)「経済理論」なわけではなく、この意思的行為の担い手=社会主義革命の主体の存在認識を強く含意していることを読み取るべきでございましょう。その主体を一般名で呼べば「労働者階級=プロレタリアート」ですけれども、それが原理的存在概念ではなく現実態において把握されるところが「主体」概念の「主体」的なところと申すべきでございましょう。

戦争という新たな契機に促されるようにして当の「階級」自体が歴史的な分解=分裂を生じている現実を見据えた記述は、「労働者階級」がもはや第二インタナショナル時代のような即自存在(「在る」ものとしての「労働者」の総体)として語りうるものではなくなっている現実への冷徹な自覚に貫かれております。レーニンがしばしば用いる「自覚したプロレタリアート」の“自覚”もそうした主体の形成という課題を提示した言葉でしょうし、「日和見主義」批判・カウツキー批判・メンシェビキ批判は、「階級」像そのものの再定義を強く含意する独自の党派性と存じます。ここで「帝国主義」という現実の把握=認識は、同時にそのように把握=認識する側の自己認識と不可分に定立されていることになります。

『帝国主義論』を「経済学」の書として読んでいるかぎり、「帝国主義」は単なる対象記述にすぎぬものとなり、こうした主客の論理関連は射程外に放置されることでしょう。合法出版物ゆえあえて禁欲したとされる「物事の政治的側面」を外挿してみたところで、上の主客関連が忘却されているかぎり問題はさして変わらぬことと存じます。

対象認識と主体意識とのこうした相互規定的な連関、哲学系の方ならたとえばサルトル『存在と無』の〈即自−対自〉連関で理解されるかもわかりません。レーニンの「哲学」自体は、第二次スイス亡命期の哲学研究を含めてもなお古典的「反映論」の立場を脱していたとは思えず、ほぼ同時代を生きたフッサール(1859-1938)が開拓した現象学の世界などとはまるで無縁の人だったにちがいございません。にもかかわらず『帝国主義論』という著作には、上のような論理関連が明らかに表出されていると存じます。

「レーニンの分析のもっとも注目すべき特徴のうちのひとつは、彼が帝国主義を政治的な概念として批判していることである」(ネグリ/ハート『<帝国>』 邦訳p.303、下線は引用者)。

というの記述の“政治的”という言葉も、こうした脈絡において理解すべきものではないでしょうか。

「社会階級」というのは、政治的・意識的にも社会的・現象的にもまた経済的・存在論的にも、異なる次元で概念化できましょう。そして支配の構造が危機を迎えるとき、その存在自体が変貌をやむなくされます。世界大戦勃発はまずなにより政治的に、すなわち「祖国防衛」というイデオロギーをめぐって、それまでの「階級」像が変転いたしました。レーニンにとっての「プロレタリア階級」は、プロレタリア独裁の担い手たりうる権力主体としての「階級」にほかなりません。それは即自存在としての「労働者」一般がその日常的存在を自ら超脱して自己形成すべき社会存在であり、資本制政治支配の危機のなかから姿を現す、そのような存在とイメージされていたはずでございます。「パリ・コンミュン」に向ける視線は明らかにそれを示唆しておりましょう。

階級支配の危機は「階級」の流動・解体を生みその再編成を課題にのぼせます。「ブルジョアジー」対「プロレタリアート」という区分もまたこの流動の動態において再定義されねばなりません。そのような解体・流動が主観的願望の幻影ではなく歴史的現実であることを示すために、その解体・流動の客観的根拠を解き明かすこと、それが小冊子『帝国主義論』の重要な課題であり、そこでものごとの「純経済的側面」に叙述を限定したことは、当時のロシアでの検閲を考慮した妥協にとどまらぬ意味をもったはずでございます。

そうした階級解体・流動の一端、ひとつには対岸にあるブルジョア的知性の動きにみてとることができましょう。第2章「銀行とその新しい役割」では、引用された『バンク』誌のランスブルク論文を評して、「これこそ、ブルジョア・ジャーナリズムの無力さのよい見本である。しかも、ブルジョア・ジャーナリズムにくらべてブルジョア科学が異なるところは、ただ後者がより誠実でないことと、事物の本質をぬりつぶし、木を見せて森を見せまいという努力をしているという点だけである」(岩p.61/国p./濤p.)という否定的なコメントがございます。しかしこれと対照的に、第3章「金融資本と金融寡頭制」には次のような記述がございました。

「金融寡頭制のおどろくべき支配にかんするおどろくべき事実はなんとしても目につくので、現にすべての資本主義国で…ブルジョア的見地に立ちながらも、なおかつ金融寡頭制のほぼただしい様相と批判――もちろん小ブルジョア的な――とをあたえている文献があらわれたほどである」(岩p.79/国p.62/濤p.79)。

こうしたブルジョア的知性が製造業−産業資本ではなく銀行−金融界を足場に登場したことは偶然ではございません。帝国主義段階を特徴づける「銀行の新しい役割」は、個別資本と区別される「総資本的理性」とでもいったものを産出し、その視点から上のような“ほぼただしい”見解も導き出されたという事情を汲み取るべきでございましょう。それは「ブルジョアジー」もまた固有の分化を露出させてた結果と理解すべきものと存じます。その点をレーニンは、次のように指摘いたします。

「資本の所有と資本の生産への投下との分離、貨幣資本と産業資本あるいは生産資本との分離、貨幣資本からの収益によってのみ生活している金利生活者と、企業家および資本の運用に直接たずさわっているすべての人々との分離――これらは資本主義一般に固有のものである。帝国主義とは、あるいは金融資本の支配とは、このような分離が巨大な規模に達している資本主義の最高段階である」(岩p.98/国p.77/濤p.98)。

「労働者階級」が一握りの「上層」とその他広範な「下層」とに分化するように、「資本家階級」もまた分化する、「階級」の解体・流動とはそのように相互規定的に進む過程として掴むべき事柄でございましょう。そして、相対立する両階級のあいだにいわゆる「中間層」が姿を現します。それを普通の社会学が言うところの「階層分化」という静態論ではなく、それ自体が矛盾と変転を孕む動態的なものとしてつかみ出すところに、『帝国主義論』の「革命の歴史認識」たるゆえんもまた鋭く表出されていると思うのでございます。
 

解読を終えて

 投稿者:*鬼薔薇  投稿日:2008年 2月 3日(日)23時56分25秒
  昨年末でとりあえずテキストの叙述を最後までトレースいたしました。
当初1年程度と考えておりましたのが予想を超えて長期にわたり、その過程で参加者が一人減り二人減りして結局わたし独りになってしまった、つまり“読書「会」”としては失敗・解体・崩壊という無様な経緯を晒した数年を振り返れば、苦い思いの幕引きではございます。

かつて『帝国主義論』は、左翼運動界においていわゆる「学習会」の定番のひとつであり、初めてこの書を繙く者は、新しい知的領野に踏み入る体験にわくわくしたものでした。今、左翼の総敗北と残党の「サヨク」化に露している知的荒廃と理論的頽廃の中でこのテキストを「読む」のは、そんな心楽しさと正反対の苦々しさを反芻しつつ瓦礫をかきわけて道をたどる気分とでも申しましょうか。

原田三郎・庄司哲太共著『帝国主義論コメンタール』を(原点の論脈を正確に追うという基本姿勢において)参照しつつ、その理解や視点にはいくつかの点でラッダイトを試みつつ、全体としては『帝国主義論』を「経済学」として読むという伝統的な立場を越えることを念頭におきつつ解読を試みたつもりではございますが、どこまでそれを果たせたかはわかりません。国家論(政治学)は『国家と革命』、組織論は『何をなすべきか』、そして経済学は『帝国主義論』という定型的理解に立った伝統的な「レーニン主義」像を総体として批判・解体し「レーニン」像を再構築するという遠大な課題になにほどか接近できたかとなれば、ようやくそのとば口にさしかかったところかもわかりません。

『帝国主義論』公刊から90年を経た今日、テキストを通じて原著者が生きた時代を思い描きますと、今「レーニン」は、レーニンにとっての「マルクス」よりはるかに旧い時代の革命政治家ということになります。その遺作を今「読む」とは、原著者の生きたソウルを正当に「歴史」のなかに定位すること、言い換えればレーニンを「歴史化」する営みとならざるをえないことをあらためて確認させられます。それは、古き伝統と化した「マルクス・レーニン主義」それ自体を歴史のなかに定位しつつ、わたしたち自身が今という時代に対峙する姿勢を問いなおす自由度を新たに獲得する作業でもございましょう。

そのあたりを念頭にいくつか「総括」めいたことどもを記して、自壊せる読書「会」の幕を降ろすことといたしましょう。
 
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【第10章】10 第3段切り(2):革命の歴史認識としての『帝国主義論』

 投稿者:*鬼薔薇  投稿日:2007年12月23日(日)00時23分47秒
  最終章末尾、「ブルジョア学者」のシュルツェ=ゲーヴァニッツがユートピア社会主義者サン・シモンを引用して当時の資本制の新傾向とその行く手を叙述している、大著『社会経済大綱』からの引用文は、どことなく愉快ですね。

「経済的諸関係が統一的規制なしに展開される、という事実に照応する今日の生産の無政府状態は、生産の組織化に席をゆずらなければならない。生産を指導するのは、相互に独立していて、人々の経済的欲望を知らない、孤立した企業家ではなくなるであろう。この仕事は、特定の社会的機関の手に帰属することとなるであろう。より高い見地から社会経済の広い領域を見わたすことのできる中央管理委員会が、社会経済を全社会にとって有利なように規制し、生産手段をこれに適当した人の手にゆだね、とくに生産と消費とのあいだの不断の調和について配慮するであろう。ところが、経済的活動の特定の組織化をその任務のうちにとりいれている機関がある。すなわちそれは銀行である」。

出典が示されていないのは残念ですが、この“天才的なことば”(ゲーヴァニッツ)、結語の「銀行」論を別とすれば、現代のサヨクがそのまま同意しておかしくないものかもわかりません。レーニンは最後に、「マルクスの正確な科学的分析から、天才的ではあったがやはり推測にすぎなかったサン・シモンへの推測への一歩後退である」とコメントしてこの小冊子の叙述を閉じます。それは、自らの叙述が、あらためて“マルクスの正確な科学的分析”の上に問題を据え直したのだという理論的自負の言葉だったのではないでしょうか。「推測」と「正確な科学的分析」のあいだがわずか「一歩」というのも絶妙といえば絶妙な表現、ユートピア社会主義への深い敬意とマルクスが開拓した理論的領野への確固たる確信と、ふたつながらににじみ出ているように感じさせるものがございます。

“死滅しつつある資本主義”の「死滅」とは資本主義の自己否定、そのキーワードが「社会化」。実にこの「社会化」こそ、第1章「独占」論に始まる全叙述を貫く視軸にほかならぬこと、先に第一段切り報告の3回目(3月25日)でも注記したところでございます(以前には副島訳を用いた箇所、あらためて宇高訳でお示しいたします)。

〔第1章〕「競争は独占に転化する。その結果は、生産の社会化の巨大な前進となる。とりわけ、技術上の発明や改善の過程もまた社会化される。……(中略)……資本主義は、その帝国主義段階において、生産のもっとも全面的な社会化にぴったりと接近する。それは、いわば、資本家たちを、彼らの意思と意識とに反して、競争の完全な自由から完全な社会化への過渡をなすある新しい社会秩序に引きずり込む」(岩p.43/国p.33/濤p.42)。

〔第2章〕「古い資本主義は寿命がつきた。新しい資本主義はなにものかへの過渡である」(岩p.75/国p.59)。
「古い資本主義、自分にとって無条件に必要な調節器である取引所をもつ自由競争の資本主義は、過去のものとなりつつある。それにかわって、なにか過渡的なもの、自由競争と独占との混合物とでもいうものの明白な特徴をもつ、新しい資本主義が到来した。そこで当然、この最新の資本主義はなにへ『移行』しつつあるかという問題がおこるのだが、この問題を提起することをブルジョア学者たちは恐れているのである」(岩p.67/国p.52)。

小冊子『帝国主義論』の叙述は、この最終章において、出発点の「独占」論の意味を再確認させつつ、その結論を示していると読むべきでございましょう。それは著者がいうように、問題の「理論的な――とくに経済的な――分析にかぎらなければならなかった」(序言)叙述にはちがいございません。しかしなおその全叙述が表出するものは、一部で好まれることの多い「原理論」-「段階論」といった区別立ての「経済学」レベルを超えて提出される「革命の歴史認識」として受け取るべきものでございましょう。

この認識は、『帝国主義論』の執筆を始めた1916年早春に、来るべきキーンタール会議に向けた提案文書で、ヨーロッパ革命を射程において簡明に表現されております。

「社会主義者は、改良のための闘争をこばむものではない。たとえば、彼らは、いまでも議会のなかで、たとえわずかでも大衆の状態をよくすることにはなんでも賛成し、荒廃した地方の住民への補助金をふやし、民族的抑圧を軽くすることなどに賛成して投票しなければならない。しかし、歴史と現実の政治的事態とが革命的に提起している諸問題を解決するのに改良を説くことは、まったくのブルジョア的欺瞞である。いまの戦争が日程にのぼせている問題は、まさにそのような問題である。それは、帝国主義の根本問題である。すなわち、資本主義社会の存在そのものにかんする問題であり、この数十年間にすばらしく急速に発達したばかりか、――これが、とくに重要な点だが――異常に不均等に発展した諸『大』国のあいだの新しい力関係に応じて、世界をあらたに分けなおすことによって、資本主義の崩壊をさきに延ばす問題である。たんに大衆を口さきで欺瞞するのでなしに、社会諸勢力の相互関係を変化させるほんとうの政治活動は、いまではつぎの二つの形態のどちらかでしか可能でない。すなわち、『自』自国のブルジョアジーが他国を略奪するのをたすける(そしてこの援助を、『祖国擁護』または『救国』と呼ぶ)か、それとも、プロレタリアートの社会主義革命をたすけ、すべての交戦国ではじまっている大衆のあいだの動揺を支持し発展させ、はじまりかけているストライキや、デモンストレーションなどに協力し、まだ弱い、革命的大衆闘争のこれらの現われを拡大させて、ブルジョアジー打倒のためのプロレタリアートの総攻撃とするかである」(「第二回社会主義者会議へのロシア社会民主労働党中央委員会の提案」(『全集』第22巻、p.197)。

この認識から引き出された「帝国主義戦争を内乱へ!」という歴史的テーゼを、半世紀以上も経ってから「日帝のアジア侵略を内乱へ!」などという不細工なゴロアワセに引き降ろして恥じなかった愚劣な所業は、戦時下の亡命革命家レーニンが必死こいて絞りだした革命の世界−史認識からほど遠いものであったこと、それは特定党派に固有の愚劣さではなく、60年代新左翼の政治思想全体が身に帯びていた制約からくる(より正確には、その制約に対する自覚の欠如が生み出した)愚劣さであったこと、そしてこの愚劣さが発生させる毒素に自家中毒を起こしてその後の陰惨な後退を生み出したこと、顧みてはらわたがよじれるような苦々しさを禁じえません。
 
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【第10章】9 第3段切り(1):帝国主義=「死滅しつつある資本主義」

 投稿者:*鬼薔薇  投稿日:2007年12月19日(水)00時08分7秒
  さて、いよいよテキスト解読も最終場面を迎えました。
この段切り冒頭で、「帝国主義」についての第三の(総括的な)根本規定がまず与えられます。すなわち――

「帝国主義の経済的本質について以上のべたすべてのことから、帝国主義は過渡的な資本主義として、あるいはもっと正確にいえば、死滅しつつある資本主義として、特徴づけなければならないという結論が生じる」(岩p.203-4/国p.164/濤p.208)。

結論をまずゴロリと転がしておいてさておもむろにその内容を論述するという、例のレーニン流ですが、ここで、世に『帝国主義論』と略称されるこのテキストの書名が「資本主義の最高の段階としての帝国主義」であることを想起いたしましょう。“最高の段階”とは、文字どおりそれ以上の段階はないことを示します。ではこの書が書かれてこのかた1世紀になろうとする時間はなんであったのか、資本制はこの間にレーニンが想定しなかった未曾有の展開・成長を遂げたのではなかったか、“最高の段階”は次々と塗り替えられて来ており、レーニンの言う“最高の”はとっくに乗り越えられているのではないのか?

たしかにレーニン以後も時代の節目ごとに「現代帝国主義」が激しい議論を呼んできたこと自体、この疑問を正当化するもののように思われるかもわかりません。第一次大戦後の「全般的危機」論にせよ、第二次大戦後における「国家独占資本主義」論にせよ、レーニンが視て描いたのとは異なる段階を捉えようとする理論的-実践的な問題関心に支えられていたにちがいなく、情勢に励起された実践的関心の意味内容を抜きにして「普遍理論」的に語ってみても、核心に触れる批判とはならぬと存じます。

けれども、ここで“最高の段階”といい“死滅しつつある”というのは、決して“もはやこれ以上の発展はない”という「成長段階」論的な意味ではなかったこと、帝国主義とは資本主義が内在させる自己否定の契機が自己展開するに至った、そのような段階であることを意味する言葉だったこと、上の第三の根本規定に続く論述から明瞭に読み取れようと存じます。

「この点できわめて教訓的なのは、最新の資本主義について書いているブルジョア経済学者が、『からみあい』、『孤立性の欠如』等々ということばを慣用的にもちいていることである。すなわち、銀行はその任務からしても、その発展からしても、純然たる私経済的な性格をもたない企業であり、純然たる市経済的な規制の範囲からますます脱しつつある企業』である、というのである。しかも、右の引用句の筆者であるリーサーその人は、きわめてまじめな顔つきで、『社会化』にかんするマルクス主義者の『予言』は『実現しなかった』と声明しているのである!」(岩p.204/国p.164/濤p.208)。

このリーサーは(ヤイデルスやシュルツェ=ゲーヴァニッツと並んで)これまでもたびたびその提供するデータとともに紹介されてきた「ブルジョア経済学者」のひとり。その名を引きつつ加えられた第2章のコメントを振り返れば、上の文言の含意、一段と明らかになりましょう。

「古い資本主義、自分にとって無条件に必要な調節器である取引所をもつ自由競争の資本主義は、過去のものとなりつつある。それにかわって、なにか過渡的なもの、自由競争と独占との混合物とでもいうものの明白な特徴をもつ、新しい資本主義が到来した。そこで当然、この最新の資本主義はなにへ『移行』しつつあるかという問題がおこるのだが、この問題を提起することをブルジョア学者たちは恐れているのである」(岩p.67/国p.52/濤p.64-5)。

これら「ブルジョア学者たち」が内的連関を捉ええず単なる現象として観察するほかなかった「からみあい」を、レーニンは「社会化」として把握いたします。それは資本制それ自身の自己展開が生み出した自己否定にほかなりません。その論理必然的な帰結をテキストは語ります。

「株式の所有や、私的所有者の諸関係が『偶然にからみあっている』という。だが、このからみあいの背後に横たわっているもの――このからみあいの基礎をなしているものは、変化しつつある社会的生産関係である。……(中略)……われわれの目の前にあるものは生産の社会化であって、けっしてたんなる『からみあい』ではないこと、私経済的および私有者的諸関係は、もはやその内容に照応しなくなっている外皮であって、この外皮は、その除去が人為的にひきのばされるばあいには、不可避的に腐敗せざるをえないものであり、また、比較的長いあいだこの腐敗状態をつづけることがありうる……にしても、しかし結局はかならず除去されるであろうということ、が明白となるのである」(岩p.204-5/国p.164-5/濤p.209-10)。

同様の認識を、当時のロシアで合法出版物に課せられた「イソップの言葉」から自由な党出版物で確認しておきましょう。

「帝国主義が死滅しつつある資本主義、社会主義へ移行しつつある資本主義であるという理由は、明らかである。資本主義から生じる独占は、すでに資本主義の死滅であり、資本主義から社会主義への移行の始まりである。帝国主義による労働の大がかりな社会化(弁護論者のブルジョア経済学者が『絡みあい』と呼んでいるもの)も、やはりこのことを意味する」(「帝国主義と社会主義の分裂」、旧版『レーニン選集』第6分冊、p.174/大月版『全集』第23巻、p.114。アンダラインは元文傍点)。

以上の叙述、実は第1章「独占」論で原理的に指摘された問題の展開にほかなりません。

「生産は社会的になるが、取得は依然として私的である。社会的生産手段は依然として少数の人間の私有である。形式的に認められた自由競争の一般的な枠はのこっているが、少数独占者のその他の住民にたいする圧迫は、いままでより百倍も重く、きびしく、たえがたいものとなる」(岩p.43/国p.33/濤p.43)

生産の社会性と取得=所有の私性という、資本制に内在する矛盾は、ここ帝国主義段階に至って全面化し深化し激化すること、この矛盾の解決が本格的なテーマとして人類史に登場したこと、それは従前と異なる性格の社会変革、根柢からの「革命」を具体日程にのぼせていること、それこそこの第10章が表題とする「帝国主義の歴史的地位」にほかなりません。すなわち、

「帝国主義は、プロレタリアートの社会革命の前夜である」〔フランス語版およびドイツ語版への序言〕(岩p.23/国p.17/濤p.21)。

旧体制を打倒した後に書き付けられたこの文言が、凡百の浅薄なアジテーションではなく、新世紀における革命の世界-史認識にほかならぬこと、帝国主義打倒を課題とするプロレタリア革命とは、「競争の完全な自由から完全な社会化への過渡をなすある新しい社会秩序」にふさわしい政治的統治形態(プロレタリア独裁権力)を創出する事業であるとする含意、ここに確認できると存じます。
 

【第10章】8 第2段切り(2) 補足:“日和見主義についての楽観主義”

 投稿者:*鬼薔薇  投稿日:2007年12月16日(日)12時38分58秒
編集済
  マルトフの名を挙げて、「これは日和見主義についての楽天主義であり、日和見主義の隠蔽に役立つ楽天主義である」(岩p.203/国p.164/濤p.207)と論難したくだり、テキスト本文だけでは論旨が読み取りにくいうらみがございます。“この論旨の実践的背景を理解する上では、この論点を全面展開した論文「帝国主義と社会主義の分裂」と併せ読む”必要を申しましたその「分裂」論文を、補足的に参照しておきたく思います。

まず、当該のマルトフの主張を『組織委員会在外書記局通報』*(1916年4月10日付第4号)からのレーニンの引用でみてみましょう。
〔*1915年2月から17年3月まで計10号スイスで発行されたメンシェビキの新聞〕
「もし知的発達の点で『インテリゲンツィア』のもっとも近く、もっとも熟練した労働者群が宿命的に革命的社会民主主義派を去って日和見主義にはしったとすれば、革命的社会民主主義派にとって、事態ははなはだかんばしくなく、絶望的な状態であるとさえ言えるであろう」。
(本当はマルトフの原文に当たるべきところ、文献的な制約からやむをえません。わたし実はこのエリ・マルトフという人物の思想と行動にはけっこう関心あるのですが)。

このマルトフの言葉を「詭弁」としてレーニンが書き付けた打撃的なコメント、少し長くなるのを厭わず引用しておきましょう。

一定の労働者層が日和見主義と帝国主義ブルジョアジーとのがわに去ったという事実を、「宿命的」というばかげた言葉とある種の「すりかえ」とによって、回避しているのだ! しかも、組織委員会の詭弁家たちに必要だったのは、まさにこの事実を回避することにほかならなかった! 彼らは、いまカウツキー主義者のヒルファーディングその他多くの人々が見せびらかしているあの「お役所ふうの楽観主義」でお茶をにごす。いわく、客観的諸条件は、プロレタリアートの統一と革命的潮流の勝利とを保障している! いわく、われわれはプロレタリアートにかんしては「楽観論者」である!
 しかし実際には、これらすべてのカウツキー派、ヒルファーディング、組織委員会派、マルトフ一派は、……日和見主義者にかんして楽観論者なのである。これがかんじんの点である!
 プロレタリアートは、資本主義の子――ヨーロッパ資本主義だけでなく、帝国主義的資本主義だけでもなく、世界資本主義の子である。世界的な尺度で見れば、五〇年早いにせよ五〇年遅いにせよ、…たしかに「プロレタリアート」は統一を達成するで「あろう」し、プロレタリアートのあいだで革命的社会民主主義派が「不可避的に」勝利するであろう。だが、カウツキー派の諸君、それが問題なのではなく、いま諸君がヨーロッパの帝国主義諸国で日和見主義者に追従しているということが、問題なのである。この日和見主義者は、階級としてのプロレタリアートと無縁のものであり、ブルジョアジーの召使、手先、その影響の伝達者であって、彼らから解放されなければ、労働運動はブルジョア的労働運動にとどまるのである。諸君が日和見主義派との、レギーンやダヴィドら、プレハーノフら、またはチヘンケリやポトレソフなどとの「統一」を説いているのは、客観的には、帝国主義的ブルジョアジーが労働運動内の彼らの最良の手先をつかって労働者を奴隷化するのを、擁護することである》(旧版『レーニン選集』第6分冊、p.178-9/大月版『全集』第23巻、p.118-9。アンダラインは元文傍点。以下同)。

つまり、もし発達した資本主義が日和見主義を助長し、労働者階級の上層部が日和見主義に傾くのが不可避だとすれば革命などは望みなき企てということになるが、そんなことはない、プロレタリアートと革命の将来を悲観することはないのだというマルトフ流の「楽観主義」は、レーニンの視点からすれば、今このとき、戦時下における日和見主義の影響が拡大している状況との対決を軽視し、その対決から身を逸らすものにほかならず、メンシェビキや、ボルシェビキとメンシェビキとの「調停」を試みるトロツキーらの思想と行動は、当面する反戦・反帝闘争を革命へと発展させる道行きを誤らせるものとならざるをえません。ここには、ツィンメルヴァルドとキーンタールというふたつの反戦派社会主義者の国際会議を主舞台として表現された反戦派社会主義の内部での対立軸が浮き出ております。上の論争的コメントはあくまでロシア的文脈にございますが、これが戦争を契機とする社会主義運動の国際的分岐=分裂であること申すまでもなく、その意味合いは、16年末に書かれたまま発表の機会を持てなかったアピール文「反戦闘争と自国政府のがわについた社会主義者に反対する闘争とを支持する労働者へ」(『全集』第23巻所収)に鮮明と思います。

先の、『帝国主義論』第10章第二段切りの最後の「帝国主義に対する闘争は、それが日和見主義にたいする闘争と不可分にむすびついていないならば、一つの空疎で虚偽な空文句にすぎない、ということを理解しようと欲しない人々ほど危険なものはない」(岩p.203/国p.164/濤p.207)という文言は、この戦時下における党派闘争のなかに搾り出されたテーゼとしてその位置を確定して読まれるべきものでございましょう。それは『帝国主義論』という著作そのものが持つ政治的位置でもございます。

第一次大戦下におけるヨーロッパ社会主義運動のこうした党派事情を抜きに上のテーゼの論脈を一般化してしまえば、もうひとつの「日和見主義」の温床と擬似左翼的セクト主義の自己正当化の論理となること、前回にコメントしたとおりでございます。30年代の「社民主要打撃論」は全世界の少数派共産党に「分離主義」の傾向を広く蔓延させ、その否定的な影響は第二次大戦後にまで持ち越されました。その基調は、共産党の「スターリン主義」を乗り越えると自称した「革命的左翼」にもほぼ無批判に受け継がれたと思われますし、その克復に必要な思想闘争はなされぬまま今日の解体状況を迎えてしまったのではないでしょうか。訳知り顔で語られる昨今サヨクの「反レーニン主義」などはこの思想闘争を回避した卑俗なケースのように思われてなりません。それは畢竟、今日の階級闘争・反帝闘争が直面する歴史的な局面とその固有の問題を直視したがらぬ脆弱な精神の発露のひとつではないでしょうか。

今レーニンを「読む」ことの固有の意味をあらためて考えさせられるところと存じます。
 

【第10章】7 第2段切り(2) 帝国主義と日和見主義

 投稿者:*鬼薔薇  投稿日:2007年12月13日(木)12時25分46秒
  顧みれば本2007年はロシア革命から90年目ですね。悠々と、いえ、てれてれと続けてきたこの読書会もテキスト総括篇というべき最終章ですが、前回までの経緯をまとめておきますとこんな有様。

【第10章】1 第1段切り(1) 独占の4つの主要な姿態  2007年 3月18日(日)
【第10章】2 第1段切り(2) 「独占」記述の意味  2007年 3月21日(水)
【第10章】3 第1段切り(3) 旧稿再掲:「独占」と「社会化」  2007年 3月25日(日)
【第10章】4 第1段切り(3) 補足:「過渡」と「前夜」の認識次元  2007年 3月28日(水)
【第10章】5 第1段切り(4) 「基本標識」と「主要な姿態」  2007年 3月31日(土)
と、このあたりまでは順調だったのですが、そこからぐっと間が空いてしまって
【第10章】6 第2段切り(1) 金利生活者国家と資本主義の寄生性  2007年 5月27日(日)

以来半年余り空白が続いてしまいました。“始めは**のごとく、最後は脱兎のごとく”、残りの部分を(できれば年内にも)読み上げてしまいたく思います。

第2段切りで残った最後の長いパラグラフは次のように書き出されます。

「多くの産業部門のうちの一産業部門、多くの国のうちの一国、等々で、資本家たちによって独占的高利潤が獲得されることは、労働者の個々の層を買収し――一時的に、しかもかなり少数のものにすぎないが――、それらの労働者を他のすべての労働者に対立させて、当該部門あるいは当該国のブルジョアジーのがわにひきつける経済的可能性を、彼ら資本家にあたえる。そして、世界分割をめぐる帝国主義諸国の敵対関係の激化は、この志向を強める。こうして、帝国主義と日和見主義との結びつきがつくりだされる」(岩p.202-3/国p.163/濤p.206)。

ここは、いわゆる「寄生性と腐朽」を扱った第8章、特にその第三段切りの「労働者を分裂させ、労働者のあいだで日和見主義を強め、労働運動の一時的頽廃をうみだすという帝国主義の傾向」という論述を受けてのものであることはすぐわかります。けれどもまたこの文章からは、いろいろな問題が浮き上がってくることも見逃せません。たとえば…

“世界の分割をめぐる帝国主義諸国の敵対関係の激化”は、イデオロギー的には国民のなかに「排外主義の蔓延」を産むはずですが[*]、そうしたイデオロギー的統合と労働者の階層分化とはどう関連するのか。あるいは、この特定の労働者層の「買収」と資本制それ自体の「寄生性」とはどう関連するのか――そうした「買収」がなされなくとも「寄生性」は独立して進むのではないか。さらにはまた、日和見主義が“一時的に、しかもかなり少数のものにすぎない”というのは、その後の歴史に照らしてみると一種の希望的観測の言葉にすぎなかったのではないか。等々…。特に最後の点は、第二次世界大戦以後に前面化した「大衆社会」時代以降今日に至る「プロレタリアート」像を「国民」像との関わりを含めて再吟味するうえでも重要と思います。実際、第一次世界大戦は始めての「国民総動員」体制による戦争、敢えて申せば「国民戦争」であったわけですし、その「戦争体験」が「国民体験」として継承されたこと、それ以前の諸「戦争」とは大きくちがっていたことでしょう(日本については「第一次大戦」は“半戦争”にすぎなかったわけですが)。

[*] 参照している3種の訳のうち副島訳(国民文庫)はこの「帝国主義諸国の敵対関係」を「帝国主義諸国民の…」と訳出しており、このイデオロギー的な側面を強く含意しております。英語で言えばたぶん‘nation' に当たるのだろう原語の文脈上の理解が問われるところかもわかりません。

このパラグラフ後段で(マルトフの名を挙げて)「労働運動における帝国主義と日和見主義との結びつきの事実――いまではとくに強く目につく事実――をつとめて見まいとして」いると批判しているところは、このテキストが世界戦争のさなかにおける社会主義運動の分裂という事態のなかで著者が自らの党派的立場を鮮明にするという政治的コンテキストからして当然ではございましょう。

ここで俎上にのぼせている「楽天主義」、すなわち“もしほかならぬ先進資本主義が日和見主義の強化にみちびくものならば、あるいはほかならぬもっともよい賃金をえている労働者が日和見主義に傾いているとするならば、資本主義の反対者たちの事業は望みなきものとなるであろう、云々”という論法に対して、「これは日和見主義についての天主義であり、日和見主義の隠蔽に役立つ楽天主義である」と論難するのは、当時の党派関係を念頭において読む限り、しごく妥当なものと思います。この論旨の実践的背景を理解する上では、この論点を全面展開した論文「帝国主義と社会主義の分裂」と併せ読むことが、必要となりましょう(当該のマルトフの主張もそこに元文の引用がございます)。

ただし、それに次いで持ち出された「腫れ物」の比喩には注意が必要かと。

「実際、日和見主義の発展の特別の速度と特別の醜さとが日和見主義の永続的勝利の保障となるものではないことは、ちょうど、悪性の腫物の発展のはやいことが、健康な肉体にとっては、その腫れ物がつぶれて身体からなくなるのを促進するにすぎないのと同じである」(岩p.203/国p.163/濤p.207)。

まず事実の問題として、レーニンが繰り返し「日和見主義の先進国」として例に出すイギリスの場合はどうだったでしょうか。“日和見主義の発展の特別の速度と特別の醜さ”が表出したかの世界帝国において、“その腫れ物がつぶれて身体からなくなるのを促進するにすぎな”かったでしょうか。実際には、イギリス労働運動は、老エンゲルスが嘆いたような状態から総体として抜け出すことはついになかったはずでございます。上のような論述は、先に第九章に示されたレーニン自身のイギリス労働組合運動認識とも符合しないものであり、その意味で「レトリック」と申さねばなりません。

より悪ければそれだけいっそう良い、というこの反転的なレトリックは、過激な心情から容易に転がり出るもののようで、毛沢東などにも時折みえるものですが、わたしこの種のレトリックを好みません。ここには決して小さくない毒素・危険が孕まれていると思うためでございます。実際、第一次大戦後のドイツ共産党がこの種のレトリックでナチスの伸張を“正当化”した故事を顧みるとき、戦闘的大衆を鼓舞するという主観的な願望とは逆に、このレトリック自体が別の「日和見主義」の温床となる道筋が見えるはずでございます。それが肥大化すれば、「負け犬」が現実の「負け」から目を逸らし別な観念空間で自閉することともなりましょう。「スターリン主義」の思想体質にそうしたものをわたし感じますし、実際、後年の悪名高い「社民主要打撃論」とはそのような心理機制を基礎に持っていたのではなかったでしょうか。

現実の労働組合運動にはさしたる影響力を持てないまま(あるいは持てないが故にこそ)、肥大化した「労働者階級」の観念が物神化されて「党」のイデオロギーを構成するとき、現実に労働組合に組織された労働者の上に君臨する指導部を告発することで「下部戦闘的労働者」をその影響力から切り離し組織できるという考えが頭を金縛りにする道筋は、決して視にくいものではございません。亡命地スイスにあって戦争を迎え、社会主義の分裂に身を晒していた極小党派のリーダーたるレーニンのなかにも、優れた現実感覚と並んでそうした心理が働いていなかったと断言することはむづかしいように感じます。

「帝国主義に対する闘争は、それが日和見主義にたいする闘争と不可分にむすびついていないならば、一つの空疎で虚偽な空文句にすぎない、ということを理解しようと欲しない人々ほど危険なものはない」(岩p.203/国p.164/濤p.207)。

こうした言辞を、それが置かれていた歴史的文脈を離れて一般化することには、十分な注意が必要でございましょう。
 
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「新しい帝国主義」像の理論的模索

 投稿者:*鬼薔薇  投稿日:2007年12月10日(月)15時58分57秒
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  大分おサボりしておりますが、またそろそろと(笑)。

以前、大坂板で現代の「金融」問題に触れたTAMO2さんのご発言に対するコメントで次のように書きました。

>当読書室のテキスト『帝国主義論』について申しますと、第5章「資本家団体のあいだでの世界の分割」と第6章「列強のあいだでの世界の分割」という、相対的に独立したふたつの分析軸が交差するところにヒントを見出せようかと思います。
(煤払いを兼ねて(笑)  投稿日:2007年10月 3日(水))

この第5章−第6章問題については、ずっと以前の臨夏さんのご報告の際にもいくつか模索的なコメントを試みたところですが、このふたつの「分割」論の“相対的独立”という論点を正面から取り上げた文献に先日接し、ヒザポンの印象を受けました。

デヴィッド・ハーヴェイ『ニュー・インペリアリズム』 (本橋哲也訳、青木書店)

“領土の論理と資本の論理”(p.36)、→“「政治的・領土的権力論理」対「資本主義的権力論理」”(p.104)という二項構造は、前者が『帝国主義論』第6章、後者が第5章で描かれたふたつの「分割」の論理であること、申すまでもございません。

帝国主義の展開はこのふたつの論理の交差構造の変動で捉えることができそうに思います。1960年代中葉以後に露わになった大企業の「多国籍」化は、前者の論理に比重が移ったことを示し、さらに80年代中葉以後の「グローバル化」は、それが「金融」を軸に新たな局面へ入ったことを示して今日に至っているのではないかと。この新たな局面を原著者は「略奪による蓄積としての帝国主義」(p.180)として総括しております。であるなら、1世紀近く前の古典的著作が提出した「独占段階の資本主義」「腐敗しつつある資本主義」「死滅しつつある資本主義」という「帝国主義」の3つの根本規定、なかんづくその第三の根本規定とこの「略奪による蓄積」とは、どのように連関するのか。

ここで「国家」が問題となるはずでございます。原著者の専門は経済地理学とのこと。“『帝国主義論』を(「経済学」の書としてではなく)「国家論」として読む”という当読書室の初発の関心軸を辿るうえで刺激的な素材として読めようかと存じます。

それにしても翻訳のひどいこと(苦笑)。
訳者は経済学に疎いばかりか基本的な用語の素養さえ欠いているらしいこと、あえて原書と対照せずとも訳文そのものから容易に看て取れますが、アマゾンの読者評に立ち入ったコメントがございました。

「誤訳・不適訳が多すぎ?日本のハーヴェイ研究に汚点」---------------
「訳の出来栄えを見る限り、訳者は、日本のハーヴェイ研究の蓄積を踏まえて訳業に携わったとは思えない。フランス史について、19世紀にパリの都市改造をしたセーヌ県知事が「ハウスマン」とは噴飯もの(108頁)。経済学のタームでは、原著者が新古典派の「均衡」と地理学の「均等」概念を注意深く使い分けるのに対し、本訳書はごちゃごちゃだ(98頁など)。さらに訳書208頁の中国の経済開発を扱った箇所で、原文の「This presumes that this process does not spark a counter-revolution within China」の一文が訳出されていない。中国の「反革命」の可能性を述べると、何か不都合があるのか?
 他にも数々ある本書の誤訳・不適訳の責任を、訳者本橋氏一人にかぶせるのは酷かもしれない。「訳者あとがき」によれば、青木書店の担当者が、本訳書の出版を2004年米大統領選に間に合わせるよう「熱望」したという。時宜を得た出版が、読者の喜び、出版社のビジネスチャンスだとしても、拙速な仕上がりの本訳書は、日本のハーヴェイ研究に大きな汚点を残した」。

専門外の著作の翻訳に安易に手を出すのはそもそも職業的研究者のすることなのでしょうか。少なくとも本書を凡百のサヨク系「反グロ」本群と同列に置くような所業は、原著者の仕事に対する冒涜ともなりかねぬと存じます。版元はどういう意図でこのような門外漢に翻訳を依頼したのかしら。安いとはいえぬ出費を強いられた読者としてはいささかの不平不満を禁じ得ません。
 
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SPA!に面白いコメント

 投稿者:TAMO2  投稿日:2007年10月18日(木)09時39分59秒
  鬼薔薇さんの書き込みに関連して。「豊かさ」を媒介にして読み解く価値があると思いました。投資家が割りを食うだけならまだしも、何の過失もない日本のフリーターが犠牲になる
というお話。(細かく書かなくてもこの掲示板の参加者には何が連鎖するかは説明不要で
しょう)

(引用)
「下流アメリカ人の借金・サブプライムローン問題で日本の下流がリストラに!?」
(2007年10/23号 p37)
 
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青木昌彦「私の履歴書」

 投稿者:*鬼薔薇  投稿日:2007年10月18日(木)01時51分45秒
  毎朝の日経を楽しみに読んでいるのですが、スタンフォード大で助教授に採用が決まった頃を回想している今(昨)朝(第16回分)の記述には特に興味を惹かれました。学位論文を用意する時期、シカゴ大教授だった宇沢弘文さんの誘いでMITの院生のワークショップに参加した青木さん、そこでジョセフ・スティグリッツと出逢っているのですね。「まだ二十代前半だったが、後にノーベル賞受賞理由となった『情報の非対称性』の理論のアイデアをすでに議論していた」とのこと。う〜ん、独創的な仕事はだいたい20代半ばにその基本ができているのでしょうか。そう思って左翼系を考えてみますと、マルクスの「ヘーゲル批判」、レーニンの「市場理論」、ヒルファディングの「金融資本」理論、いずれもそうですし、日本でも武谷三男「技術論」や、それどころかクロカン先生の「へとマ」だってそのうちに数えられたよろしいのかもわかりません。

スティグリッツといえば日本では「反グローバリズム」の啓蒙家と思われているようですが、本業に着目すれば主著は何といっても『新しい金融論』 でございましょう。ここでも高望みさんからご紹介のあったこの書、“信用と情報の経済学”という副題が示すように、これこそ青木さんが出逢った頃の若きスティグリッツのアイデアが結晶した作品なのでしょうね。

高望みさんには、この現代理論とヒルファディングの古典的理論を止揚するという野心的な問題関心も併せてうかがいました。素養のない門外漢のわたし、この高度な理論書の解読などもちろん叶いませんが、一般向けの紹介書 を読むだけでも、これが二十世紀末から露わになった資本制の変質というすこぶる現代的なテーマに関わることはストレートに感知されます。

この「変質」を一言でいうなら、実体経済からの「金融」の“離陸”とその自己運動が実体経済に及ぼす作用でございましょう。それはまた「資本」が「国民国家」の拘束から自由になることを強く含意いたします。1971年ニクソン・ドクトリンで基軸通貨たる米ドルは「金」との最後のリンクを断ち、戦後世界経済を規定してきた固定相場制が終了、「価値尺度」なき変動相場制へ移行して35年余を経たわけですが、90年代アメリカの「ニュー・エコノミー」に花開き、近代資本制の基礎構造だった株式会社制度をも(エンロン事件にみるとおり)食い破るまでに至ったこの変質は、価値尺度」なき変動相場制の浮動性を基礎に、情報・通信インフラの驚異的な高度化を技術的条件として現実のものになったと言えましょう。けれども、変質そのものは技術的条件よりも本質的なところに根拠をもっているにちがいございません。言い替えるなら現代資本制に対する批判は、「格差」とか目につく現象をあれこれ拾い集めるだけでなく、この“本質的なところ”へ踏み込んでこそ「批判」の名に値する、そんなテーマのはずと思います。「貧困」は「豊かさ」と表裏に位置しているとすれば、ふたつを刺し貫く視点が求められるはずでございましょう。

それは現代資本制の創り出す「実」と「虚」にかかわり、たとえば伝統経済学での「価値」と「価格」とか「信用」といった基礎カテゴリーを再定義することとなるのでしょうね(共産党の不破さんが折に触れて「信用理論の重要性」を口の端にのぼせていることも意識の片隅に引っかかってございます)。この点、近年の原油や穀物、貴金属など市況商品の異常な価格高騰を導いている「先物取引」、あるいは不動産や電力の「証券化」といった現実が目前で解明を求めていると感じますし、経済主体であるはずの「企業」がひとつの「商品」となって取引される昨今のM&Aの動向も見逃せません。このような現代を解明すべき理論がどのような姿に彫琢されるのか、ヒルファディング理論を下敷きにしたレーニン『帝国主義論』の「金融寡頭制」像がそうであったように、「経済」プロパーとはいかず「政治権力」の領域を織り込まざるをえないのでしょうけど、むづかしそう。専門研究者のお仕事に期待するといたしましょう。

あらま、青木さんの話にはなりませんでしたね(^^)ヾ。
 

お久し振りです

 投稿者:臨夏  投稿日:2007年10月 8日(月)01時26分40秒
  どうも、臨夏です。
『帝国主義』読み会再開しましょう、と言うておきつつ、約束守れなくてすみませんです。

バラキンさん、Office榎原、前行ったら閉鎖されてたんで
心配しておりましたが、リニューアルしていたんですね。
またちょくちょく覗かせて頂きます。

バラキンさんは、ほんまですね、
新左翼的貧困さの中では例外ですね。
わたしの師匠の表三郎の友人でもある方で、『情況』なんかにたまに出てはりますよ。
こないだは、『情況』2007年の1/2月号、3/4月号に、
表とも一緒に、ハイデガーをめぐる談話会で居てはりました。

因みに、ちゃんとは読んでないのですが、3/4月号は、「<アジア>をめぐる知」という特集で、
ちょっとおもろかったです。鬼薔薇さんは、こういうのお好きではないですか(笑

TAMO2兄ともご無沙汰しております、
今回は、いろいろ情報提供おおきにさんでした。
>鬼薔薇さん、TAMO2さん。
 

蜘蛛の巣部屋と化しつつあるところへ

 投稿者:*鬼薔薇  投稿日:2007年10月 7日(日)22時28分52秒
  ようこそ(^^)>TAMO2さま

貴ブログで杉本さんの投稿拝読いたしました。なるほどたいへんな勉強家ですね。業論から拝察するに榎原均さんにお近くの筋の方でしょうか。“ヨヨギ系をただ蔑視してきた「新左翼」系の理論的貧困・荒廃”のなかで例外的なおひとりが榎原さん。その営々たる営みには頭が下がります。
 http://www.office-ebara.org/

杉本さんの投稿は、ブログの展開に即して「商品論(価値論)」の奥底のところですが、わたしそのあたりは自分で書く力ございません。「帝国主義」の問題圏へ架橋するのは「貨幣論」→「銀行・信用論」かなと思いますが、ここでも「信用論」に向ける榎原さんの烈々たる問題追及には遠く及ばず、ただ頭を垂れるのみのわたしでございます(^^)ヾ。

>マネーの持つ(過剰な)流動性をいかに抑制するか、という課題が見えてくる文章だったと記憶していますが、それって一種の反動ではないか?と。まあ、ヨヨギじゃないマルクス学派も頑張っておられる、ということで。

まぁ、宇野学派の伊藤さんがヨヨギ出版社から本を出したからといってあれこれ申す立場でもございませんが(苦笑)、“マネーの持つ(過剰な)流動性を抑制する”主体をどこに求めるのでしょうね。それが「国家」であるなら、戦時統制経済・国家社会主義(ファシズム)・国家独占資本主義(ケインズ政策)がたどった歴史をどう見るのか、興味深く思います。

>ミタル社の「活躍」なんかみると、金融資本だけじゃなく、産業資本も国境を易々と超える、だけど、同時に、活動し易い国家を選ぶ、という意味では、今までとは比較にならないほど、国家の意義(資本家にとっての!)が重要になっている、ということですね。

ミタル・スチールなど現代の超国家企業は果して「産業資本」でしょうかしら(たとえば第一次大戦期のクルップとかと比較して)。彼らにとって「鉄」など単に「価値」の担い手という意味での「素材」に過ぎず、追求されるのはその「価値」の増殖であり、実際、その企業膨張を支えているのは、世界を股に掛ける巨大投資銀行ゴールドマン・サックスのはずでございます。いわゆる「ファンド」というのは、LTCMにせよジョージ・ソロスにせよ村上ファンドにせよ、ゴールドマンサックスやメリルリンチやドイッチェバンクなどの尖兵というべき存在でございましょう。
 http://www.tanakanews.com/981013LTCM.htm

権力としての国家がもつ制御機能はすでに効かなくなっている今、“国境を易々と超える”資本にとって「国家」の意義というのは、「国境」というものが生む差分にあるのかもわかりませんね。“活動しやすい国家”というとたとえばタックス・ヘイブンなどもそのひとつかも。実際、日本の対外直接投資実績統計をみると、オランダ、アメリカ、中国などに混じってケイマン諸島とかが上位に顔を出していますよね。
 http://www.mof.go.jp/fdi/h16b_2.htm

ま、かつてのクルップにしたところで、その製造する砲や弾を相闘う双方の国に売って利益をあげていたという意味で決して「愛国者」ではなかったわけですが、それでもドイツ帝国が「祖国」であったにはちがいございません。対して今の超国家企業にはそもそも「祖国」などありはしないでしょう? 資本は資本の本性を露出し、その「価値」はモノすなわち「使用価値」の制約から限りなく解き放たれて自由な運動を体化しているように見受けられます。資本制のそのような時代にあって「商品」とは、「価値」とは、あるいは「労働」とは何か――といったところで最初のお話になんとかつながりましょうか(笑)。
 

勝手なお願い

 投稿者:TAMO2  投稿日:2007年10月 4日(木)22時16分36秒
  http://red.ap.teacup.com/shihonron/13.html

ですけど、杉本さん、凄いです。小生の知らない世界を知っておられるという点もある
のですが、書いていることの深さ(色々ググるくらいはしています)、労働価値説の
正しさへの思い入れの深さ、とても小生では捌き切れないものがあります。

っつーか、良く分かりません。こちらもよろしければ、コメント願います。
 
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マネー、その捉えどころなきもの

 投稿者:TAMO2  投稿日:2007年10月 4日(木)22時08分51秒
編集済
  お久しぶりです。「資本家団体」というものも、かつてのトラスト、シンジケート、財閥
なんかで捉えられないというところがあると思います。端的にはファンド。彼らは金融資本
家なんでしょうけど、お金の集め方や運用の仕方が、どうもワシのような古い頭の持ち主
にはイメージできないんですよね。投機が投機を生む作用。根っ子は何か、そもそも、
根っ子は要るのか?(マル経的には、それを言っちゃあおしまいよ!かも??)

ほんでまあ、今日、たまたまヨヨギ系の本屋で立ち読みしてたら、『幻滅の資本主義』
(伊藤誠著)ってのが、この辺のヒントになるかもね?という記述がありました。

マネーの持つ(過剰な)流動性をいかに抑制するか、という課題が見えてくる文章だった
と記憶していますが、それって一種の反動ではないか?と。まあ、ヨヨギじゃないマルクス
学派も頑張っておられる、ということで。


※ここでも話題になったと思いますが、ミタル社の「活躍」なんかみると、金融資本だけ
じゃなく、産業資本も国境を易々と超える、だけど、同時に、活動し易い国家を選ぶ、と
いう意味では、今までとは比較にならないほど、国家の意義(資本家にとっての!)が
重要になっている、ということですね。
 
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煤払いを兼ねて(笑)

 投稿者:*鬼薔薇  投稿日:2007年10月 3日(水)22時15分34秒
  あまりに放置しっぱなしで煤がかかってしまいそう(^^;
そんな折、大坂方面からお呼びがかかったようですので、こちらで応答しておくことといたしましょう。

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で、アメリカがブイブイ言わせている分野というと、ITよりも金融ですが、護送船団方式「解体」のとき、国家に思いっきり泣きついてバブルの負債を肩代わりしてもらい、いくつかの金融機関は自ら商品となってファンドにお持ち帰りされる有様。そもそも、金融という「どう考えても軍事力なしで強制力が持てない」分野で、9条のある日本国家の下の企業が勝負できるのだろうか? この辺、マルクス主義者の冷徹な分析を期待したい。(鬼姐さんあたりやってこないかなあ)

『帝国主義論』を読み返してみるとヒントあるかなあ。
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(おっしゃることは分からないでもないが  投稿者:TAMO2  投稿日:2007年10月 1日(月)20時41分17秒)

まず、当読書室のテキスト『帝国主義論』について申しますと、第5章「資本家団体のあいだでの世界の分割」と第6章「列強のあいだでの世界の分割」という、相対的に独立したふたつの分析軸が交差するところにヒントを見出せようかと思います。

第一次世界大戦前後のいわゆる「古典的帝国主義」期には、「列強」のパワー・ポリティクスが主軸だったことでしょう。1940年代から60年代へかけての約20年を過渡期として、「資本家団体」のほうへと主軸が推転しているのが現代ではないでしょうか。そこに「国家と経済」という問題圏が開かれていると存じます。

問題は「資本家団体」の構造と動態にございましょう。半世紀前までそれは「カルテル・トラスト・シンジケート」に代表される「巨大独占」であり、その実体は「産業資本と銀行の癒着=金融資本」であり、その主たる活動は投資と生産でございました。今、世界を分割する「資本家団体」の実体は端的にマネーであり、その主たる活動は投資でも生産でも消費でもなく、端的に投機にございましょう。

「マルクス主義者の冷徹な分析」というのは昨今ひとつの形容矛盾になっている感なきにしもございませんが(苦笑)、別に「マルクス主義」と限定せずとも「冷静な分析」の試みはございましょう。今年に出た下記書などそうした試みのひとつではないかと思って買い求めました。

水野和夫『人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか』

この書は、「グローバリゼーション下で生じている大きな構造変化」を次の3つの軸で描き出そうとしております。
 1.帝国の抬頭と国民国家の退場=帝国化
 2.金融経済の実物経済に対する圧倒的な優位性=金融化
 3.均質性の消滅と拡大する格差=二極化

1の「帝国」は、“金融帝国と化した米国や、中国・インド・ロシアなど旧帝国”を指してのもので、ネグリ・ハートが<帝国>というイメージで描き出そうと試みた超国家的=非可視的ヘゲモニー装置とはちがいますが、“国民国家の退場”といい“金融化”といい、少し前に他界したイギリスの女流エコノミスト、S・ストレンジの影響は小さくないように見受けます。

著者は大手証券会社のエコノミスト。ここのところシャープ=冷静な分析の業績は、大学エコノミストや官庁エコノミストより、民間でみられるようですね。もっともあまりにシャープで時の権力を刺激すると、どこかのお山の上から「刺客」が送られたり「手鏡」を持たされたりと、こあいことにもなるようですけど(苦笑)。

固化し沈没する「マルクス主義」の側でも、わずかながらこうした領域へ目を向けた業績がないわけではないこと、下記などそのひとつの例を示しているように思います。

後藤道夫+伊藤正直『現代帝国主義と世界秩序の再編』

出たのが10年以上前ですので最新のホットな話題は含まれておりませんし、ネグリ/ハート『<帝国>』のラディカリズムとは縁薄い内容と思いますが、ま、それはヨヨギ系ということでやむをえぬかと(苦笑)。とはいいえ「帝国主義」系の議論が脇に置いてきた「大衆社会」という問題圏を射程に入れているところ、意欲は買えると存じます。そのヨヨギ系をただ蔑視してきた「新左翼」系の理論的貧困・荒廃を顧みて寒々とした気分にさせられます。
 
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【第10章】6 第2段切り(1) 金利生活者国家と資本主義の寄生性

 投稿者:*鬼薔薇  投稿日:2007年 5月27日(日)09時55分0秒
編集済
  身辺の雑事にかまけて大分サボってしまいましたが、解読を再開いたします。

第10章第2段切りは、次の記述から始まります。
「独占、寡頭制、自由への熱望にかわる支配への熱望、少数のもっとも富裕なあるいはもっとも強力な民族による、ますます多数の弱小民族の搾取――すべてこれらが、帝国主義を寄生的あるいは腐朽しつつある資本主義として特徴づけさせる帝国主義の諸特徴をうみだしたのである」(岩p.201/国p.161/濤p.204-5)。

以下、文庫本で3ページ足らずの記述は、内容的には第8章「寄生性と資本主義の腐朽化」を要約したものと読んでさしつかえないかと存じます。“自由への熱望にかわる支配への熱望”という表現は、ヒルファディング『金融資本論』から引いてきたものでしたが、この関係叙述全体はより多くイギリス人・ホブスンの著書『帝国主義論』に依拠していたこと、(ジュニアさんの代打で)第8章をレポートした折の記憶が残ります。そして後段では、「帝国主義と日和見主義との結びつき」(国p.203/)が導かれ、「帝国主義との闘争は、それが日和見主義にたいする闘争と不可分に結びついていないならば、一つの空疎で虚偽な空文句にすぎない」(岩p.203/国p.164/濤p.207)との厳しい指摘で結ばれ、最後の第三段切りへと移ることになります。

ここの解読で基本となるべき第8章「寄生性」の理解について原田三郎教授は、論文「『寄生性』についての若干の理論的問題」[*]で次のように述べておりました。

《八章の分析を正しく読みとるためには、それが本質的に経済的分析であることをしっかりと把握しておくことが是非とも必要である。……(中略)……この点を、私があえて強調するのは、八章の分析内容は一〜六章およびそれの総括としての七章の分析内容を直接踏まえて展開されているという、その関連に注意を促したいからである。八章が本質的に経済的分析であることをしっかりと把握せず、それの一〜七章の純経済的分析との関連を自覚的に認識しないことから、寄生性を帝国主義=独占資本主義の個々の特殊な局面――停滞・植民地支配・利子寄食においてのみ見る見解が生じ、そこからまた、寄生性は帝国主義=独占資本主義の一定の時期とか一定の国とかにあらわれ、他の時期とか他の国とかにはあらわれないと見る傾向が生じるように思われる。これは、寄生性の理論のたんに矮小化であるばかりでなく、間違った理解であるとさえ、私には考えられる》(『帝国主義論コメンタール』p.213-4)。

原田論文の眼目は、この「寄生性」の理論こそ“『帝国主義論』の要めをなすもの”というところにあり、そこに『資本論』と比較した『帝国主義論』の独自の理論的次元があるとの理解に立っているのですが、この点の検討は後に譲るとして、ここではとりあえず、第1〜7章が帝国主義の「経済構造分析」、対して第8章以下は「上部構造分析」という単純かつ俗流的な理解を斥けておいて、まずはテキストの論脈を押えてまいりましょう。

先の冒頭の文章に続いて、「金利生活者国家」、高利貸国家の形成という“帝国主義の諸傾向の一つ”が明瞭になることを指摘し、こうした諸国のブルジョア階級が、生産という実業よりも資本輸出と「利札切り」という虚業にますます多く傾くことを指摘いたします。それは「寄生性」の現象にほかなりません。
※「資本輸出」といってもこの時期にはまだ直接投資(生産の海外移転)よりも間接投資・証券投資が主流だったこと、1960年代後半からの「多国籍企業」の出現と対比して確認しておくべき点と思います(もっとも対外投資におけるこの「直接/間接」という用語法がかなり曖昧で不明確なものであること、わが国の国際金融統計の分類にもみられるところですが)。

素朴な理解に立てば、こうした資本主義の直接的生産過程からの乖離=「虚業化」の傾向は資本主義の急速な発展を排除すると考えられがちですが、レーニンはそうした考えを「誤り」だと退け、次のように述べます。

「個々の産業部門、ブルジョアジーの個々の層、個々の国は、帝国主義の時代には、程度の大小はあるにしても、これらの傾向のうちどれかをあらわしている。しかも全体としては、資本主義は、以前とは比較にならないほど急速に発展するのである。もっともこの発展は、一般にますます不均等となるばかりでなく、この不均等はとくに資本力のもっとも強い国々(たとえばイギリス)の腐朽化のうちにあらわれている」(岩p.201/国p.162/濤p.206)。

いわゆる「不均等発展の法則」といわれた問題ですが、ここで注目しておくべきは、「不均等」が単に個々の経済単位の発展度合いやそのサイクルのちがいとして並列的に捉えられるのではなく、「腐朽化」という傾向をともなう“急速な発展”のなかに生じる現象として把握されている点でしょう。これは、続く第2パラグラフで、イギリスを追撃するドイツの例を、またそのドイツに続いてより急速な経済発展をとげつつある新興国アメリカの例を、それぞれ示しているとおりでございます。

リーサーの銀行研究からの引用をもって示されるドイツの例に、興味深い指摘がされております。

「この異常に急速に成長した金融資本は、まさにそれがこれほどにも急速に成長したということのために、より富裕な国から――かならずしも平和的手段だけによらないで――うばわるべき植民地を、より『平穏』に領有するという方向に移ることをいとわないのである」(岩p.202/国p.162/濤p.206)。

第7章末尾の「帝国主義戦争不可避性」テーゼだけで『帝国主義論』を読んだ気になっている粗雑な頭脳には、容易に理解しがたい文言ではないでしょうか。平和の時代ではなく現実にヨーロッパ全体が戦争の嵐に叩き込まれているさなかに書き付けられた事情を勘案すればなおのことでございます。ここでわたしたちは、第5章「資本家団体のあいだでの世界の分割」と第6章「列強のあいだでの世界の分割」という世界分割のふたつの軸を想起すること、そして、「国際的カルテルによる世界の(経済的)分割がはじまっている。世界市場全体を支配し、『むつまじく』それを分け合っている」という“分裂”論文(『選集』第6分冊、p.173)の記述を、そして「平和」な事態が「帝国主義」の基本性格を変えるかのごとき理解こそ、カウツキーの所論にレーニンが見出した理論的・政治的傾向であったことを想起するように求められていると考えねばなりません。

ドイツに続くアメリカの記述は、これまた重大な指摘を含んでおります。

「共和国アメリカのブルジョアジーと君主国日本あるいはドイツのブルジョアジーとを比較すると、きわめて大きな政治的差違も、帝国主義の時代にははなはだしく減殺される、ということがわかる。だがこれは、政治的差違が一般に重要ではないからではなくて、すべてこれらのばあいには、寄生性の一定の特徴をそなえているブルジョアジーが問題となっているからである」(岩p.202/国p.162-3/濤p.206)。

第2パラグラフ末尾のこの叙述に、政治(体制)というものを基底的な規定性から相対化するレーニンの方法的視点を看て取ることができましょう。これは、「帝国主義」を制度や政策という(いわゆる「上部構造」)の次元において考える思考と対極のものでございます。政体の上でもっとも「民主的」なアメリカでその資本主義の寄生的特長は特に明白であり、政治的民主制が帝国主義の諸特徴を減殺するものでもなければその経済的本質をいささかも変えるものではないこと(言い換えれば、政治的民主主義をめぐる要求の是非を経済的規定から直に論じることもまた誤りであること)が、ここに紛れなく語られております。

実際、この方法こそ、『帝国主義論』と前後する時期に執筆された多くの諸論稿に貫かれたものにほかなりませんでした。なかでも、戦時下にともに左派を形成したポーランドやオランダの左翼社会主義者たちとの論争で「民族自決」を論じた諸論稿は、この点を直接に主題化しており、レーニンの「帝国主義」像を把握する上で欠くことのできぬ文献と思うのですが、各種訳書の巻末解説も、それをしっかり射程に入れているようには見えません。それはこの『帝国主義論』という著作を「経済学」の枠に閉じ込めて解釈してきた結果のようにわたしには思われます。

以上を確認して、“帝国主義と日和見主義との結びつき”を扱う次のパラグラフへ進みましょう。

[*] この論文(初出:『末永茂喜教授還暦記念論文集 経済学の方法』日本評論社、1968.5刊)は、『コメンタール』を底本にに全文テキスト化し、旧[作業室]分載しました。その後ひとつのファイルに整形し、著作権を配慮して「会員限定配布」に移したこと、現[作業室]にお示ししているとおりです。
 
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佐野訳『入門』復刊

 投稿者:*鬼薔薇@病み上がり(^^;  投稿日:2007年 5月 6日(日)15時01分23秒
  まだフラフラしておりますが、そろそろと(苦笑)。

長谷部訳『資本蓄積論』だけでなく、『経済学入門』の 佐野文夫訳(戦前版岩波文庫)も復刊されていると知って驚きました。

版元は一穂社(いっすいしゃ)。「岩波文庫を底本に、名著・古典籍を復刻刊行するシリーズ」の一冊ですけど、一風変った出版社ですね(^^)。
 http://www.issui-sha.co.jp/

この佐野訳(初出は昭和元年、岩波文庫初版が昭和8年)、戦後も一時期まで古い紙型を使って出されており、手許のものは昭和28年の第十刷――お借りしたお師匠さんが亡くなって、そのままお形見となってしまいました。

今は岩波文庫に岡崎・時永訳が入っていますが、この佐野訳にも(大塚訳に対する梶山訳『プロ倫』のように)独自の価値があるのでしょうか。佐野文夫は、「転向声明」で有名な佐野学とともに戦前共産党の最高指導部の一人で、マルクス主義文献の翻訳を数多く手がけておりました。その政治的・理論的業績を顕彰する意味は小さくないと思いますが、この訳業自体の価値については知るところございません。

『経済学入門』〔原題は「国民経済学入門」〕は、第一次大戦前ドイツ社民党党学校での講義を契機に執筆された未完の草稿で、そのうち虐殺に伴う散逸を免れた遺稿を同志パウル・レヴィが後に編纂したものですから、著作としては二重に未完成なもの。その執筆過程で直面した理論的困難との格闘から主著『資本蓄積論』が生れた事情は、『蓄積論』序文に著者自身が記しております。

佐野訳の底本は上のパウル・レヴィ編纂になる1925年の単行本、旧東独初期に出た『二巻選集』(1951年[*1])を底本にしたのが戦後の高山洋吉訳(1956年)、岡崎・時永訳は1970年代の東独版『著作集』(全5巻6冊[*2])を底本にしております。今の岩波文庫版の巻末に附された時永さんの「解説」は入念なもので、『入門』の執筆〜遺稿出版が著者の波瀾の生涯を映し出しているように、邦訳の歴史もまたローザ評価の変遷とわが国共産主義運動の曲折とを反映していることが、読む者に痛く伝わってまいります。

[*1] これをベースにいくつか補充したのが現代思潮社版『選集』でした。
[*2] 現行岩波文庫の訳者は『全集』としておりますが、完全とはいえぬもののようで『著作集』と呼ぶのが適当でしょう。多くのポーランド語著作を含む包括的な『全集』の編纂・出版計画が、数年前「アソシエ」周辺で語られていたようですが、その後音沙汰ないようですね。
 
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長谷部訳『蓄積論』復刊

 投稿者:*鬼薔薇@病臥(^^;  投稿日:2007年 4月28日(土)13時15分55秒
編集済
  諸事に取り紛れたあげく床に臥せったりして解読中断しております。以下、生存証明の雑談。

昨年末の発言に、次のように注記しております。

>>一世紀前の革命の世界認識=歴史認識の点でレーニン『帝国主義論』に比肩しうるのは、やはりローザ・ルクセンブルクの『資本蓄積論』(特にその第三編)だと思います。『資本蓄積論』の邦訳は、青木文庫で出ていた長谷部文雄訳が姿を消して全訳は入手困難ですが、第三篇「蓄積の歴史的条件」だけなら太田鉄男訳で出ております(同時代社、2001年)。
(【第9章】13 ランスブルグ統計の意義と「帝国主義」の歴史認識(2) 投稿日:2006年11月28日(火)23時03分21秒 )

上の青木文庫版長谷部訳、実は戦前の岩波文庫版に手を入れて戦後再刊したものでございますが、昨年それが(上の書き込みより前に) 復刊されていたことを知人から知らされました。

アマゾンの「カスタマーズ・レビュー」には次のようにございます。

「岩波文庫から85年に復刊されましたが、その後は品切れ状態。青木文庫は絶版となっていましたが、今回、青木文庫版が活字を大きくして復刊されることになりました。青木版を使っていますので、漢字も旧漢字です。しかし、マルクス経済学の古典としての本書の意義はあると思います。彼女が考えた再生産論は非常に示唆に富みます。同じ女性の経済学者ジョーン・ロビンソンも彼女を意識してか同じ本を出しています。然し、内容は違いますけど。高価な本ですが、手に入れておくべき本でしょう」。

85年の岩波文庫での復刊は寡聞にして存じませんでした(^^)ヾ。少部数ですぐになくなったのですね、きっと。

上の復刊本はややお高いのが難点ですが、文庫の古書価格は揃いでこれより高いようですし、とにかく全訳が新刊で入手できるのは朗報でございましょう。批判に対するローザの反駁『資本蓄積再論―亜流はマルクスの理論から何をつくったか』(やはり長谷部訳。これが戦後の青木文庫にあったかどうか不明)も収録されているなら、独自の価値をもつ書と思いますが、アマゾンの記事には内容紹介がないのでわかりません。
※グダグダいうならドイツ語で読めばいいじゃん、とか冷やかしが入るかしら?
ちなみに、『蓄積論』の原文や英訳はネット上にあるようですが、『再論』のほうは…?

なお、不破『レと「資」』の特徴のひとつは、レーニンとローザを切離し後者を完全に否定し去るところにございました。それはローザ否定というよりも、両者が共有した「世界体系としての帝国主義」という革命の世界=歴史認識枠の拒絶でございましょう。レーニンのローザ批判『経済学評註』を踏まえつつ、批判的対質をめざしたく思います。

さて、病が癒えたら第10章の続きを読みましょう。
よろしく>臨夏さん
 
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 投稿者:臨夏  投稿日:2007年 4月23日(月)00時15分32秒
編集済
  こんばんは、臨夏です。
「読書会またしましょう」と呼びかけておきながら、
なかなか始めれないですみませんです。
私用が少し忙しくて、時間がない按排です。
もう少しして、山を乗り切れたら、またご連絡致します。
不義理ごめんなさいです。
話題もなくて、内容の無いログで、すみませんです。。
 
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〔事務連絡〕過去ログ

 投稿者:*鬼薔薇  投稿日:2007年 4月 1日(日)11時25分52秒
  当板の過去ログ管理では、旧「読書コーナー」板いらいTAMO2さんにお世話をかけてまいりましたが、このたび昨06年1月以後の分を席亭の自主管理といたしました。TAMO2さんには、長らくのご協力にお礼申し上げ、あらためてよろしくお願いいたします。m(..)m  
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【第10章】5 第1段切り(4) 「基本標識」と「主要な姿態」

 投稿者:*鬼薔薇  投稿日:2007年 3月31日(土)00時45分22秒
  以上をふまえて、問題の第7章「帝国主義の五つの基本指標」とここ第10章での「独占の四つの主要な姿態」とを比較してみましょう。

●第7章「基本指標」----------------------------------------
(1) 生産と資本との集積が、経済生活で決定的な役割を演ずる独占をつくりだすほどに高い発展段階に達したこと、
(2) 銀行資本と産業資本が融合し、この「金融資本」を基礎にして金融寡頭制がつくりだされたこと、
(3) 商品の輸出とは異なる資本の輸出がとくに重要な意義を獲得していること、
(4) 資本の国際的独占団体が形成されて、世界を分割していること、
(5) 最大の資本主義列強による地球の領土的分割が完了していること、
                    〔岩p.145-6/国p.115-6/濤p.145〕

●第10章「独占の四つの主要姿態」-----------------------------
第一に、「独占は、きわめて高度の発展段階にある生産の集積から発生した。それは資本家の独占団体、すなわち、カルテル、シンジケート、トラストである。…二〇世紀の初めごろ、これらの団体は先進諸国で完全に勢力をしめるにいたった」(同)。【第1章】

第二に、「独占は、もっとも重要な原料資源…の占有をもたらした。もっとも重要な原料資源〔石炭と鉄〕の独占的支配は、大資本の権力をおそろしく増大させ、カルテル化された産業とカルテル化されていない産業とのあいだの矛盾を先鋭化させた」(岩p.199-200/国p.160/濤p.203)。【同】

第三に、「独占は銀行から発生した。銀行はひかえめな仲介的企業から金融資本の独占者に転化した。…現代ブルジョア社会の、例外なしにすべての経済機関と政治機関のうえに、従属関係の濃密な網をはりめぐらしている金融寡頭制――これこそが、この独占のもっともあざやかな現われである」(岩p.200/国p.160-61/濤p.203)。【第2、3章】

第四に、「独占は植民政策から発生した。金融資本は、『古くからの』植民政策の多数の動機に、さらに、原料資源のための、資本輸出のための、『勢力範囲』のための――すなわち有利な取引、利権、独占利潤、その他の範囲のための――最後に、経済的領土一般のための、闘争をつけくわえた。…世界が分割されてしまったときには、不可避的に、植民地の独占的領有の時代が、したがってまた、世界の分割と再分割のためのとくに尖鋭な闘争の時代が到来した」(岩p.200/国p.161/濤p.203-4)。【第4〜7章】
---------------------------------------------------------------

比べてみると、第7章の「基本指標」は先行する第1〜6章の叙述を包括的に扱っており、そこから次の「再定義」を導いたものでした。

「帝国主義とは独占体と金融資本との支配が形成されて、資本の輸出が顕著な意義を獲得し、国際トラストによる世界の分割がはじまり、最大の資本主義諸国による地球の全領土の分割が完了した、そういう発展段階の資本主義である」(岩p.146/国p.116/濤p.145)。

それに対し、ここ第10章の「主要姿態」はそうした包括的な特徴づけではなく、第1〜3章の原理的な規定に大きく比重を置いたものであることがわかります。

前にも整理を試みたように、第1章「集中・集積論」が「独占」原理の基本のキ、それを補強したのが第2、3章、第4〜6章はそれを基礎としたいわば各論、その全体を第7章で総括するという論述展開でございました。それを考え合わせれば、この第10章に列記された「主要姿態」は、もう一度「独占」の原理規定にさかのぼり、それを基礎に「帝国主義の歴史的地位」を導こうとするものであること、そのような論理展開に本章の独自な意味があるものと考えられると存じます。

さて、その「独占」を主題に据えた第1段切りは次のように結ばれます。

「独占資本主義が資本主義のあらゆる矛盾をどれほど先鋭化したかは、周知のところである。ここでは物価の騰貴とカルテルの圧迫とを指摘すれば十分である。矛盾のこの先鋭化は、世界金融資本の終局的勝利の時代のときからはじまった歴史的過渡期のもっとも強力な推進力である」(岩p.201/国p.161/濤p.204)。

なぜ物価騰貴とカルテルの圧迫が先鋭化する矛盾の代表指標なのか、“世界金融資本”とは、その終局的勝利とは何か? これらの逐語的な説明が先行章に十分なされていたかよくわからぬものが残りますが、ここで「歴史的過渡期」というのが資本主義から社会主義への過渡期として思い描かれていただろうことは、上の比較検討からもほぼ了解できるところでございましょう。

独占は競争の否定ですが、ほかならぬ自由競争の中から生れたというのが(前近代的独占と区別された)第1章の「近代独占」の規定でした。その近代独占は資本主義そのものですが、その資本主義的独占自身が、今度は資本主義の否定たる社会主義の物質的基礎を生み出す、という(「否定の否定」という『資本論』のレトリックに似た)ロジックスが、「帝国主義の歴史的地位」の論述を貫いているのではないか、と予想することができましょう。第1〜3章で繰り返される「社会化」のモメントがここにあらためて注視されるゆえんと存じます。

ここで関心を向けておきたいことは、第7章で定義し直した「帝国主義」の内容が「基本的な純経済的概念」に「限定されて」(岩p.146/国p.116/濤p.145)いたこと、「あとで見るように、……資本主義一般にたいする資本主義のこの段階の歴史的地位とか、あるいは労働運動の内部における二つの基本的傾向と帝国主義との関係とかを念頭におけば、帝国主義についてこれとは違った定義をすることができるし、またしなければならない」(前同)と、後段での別な定義を予告していたこと、そして、ここ第10章は、その“資本主義一般にたいする資本主義のこの段階の歴史的地位”を導くべき位置にあることでございます。

ではそれは、第7章が強調した純「経済的」概念とは「違った」(政治的あるいは社会的概念からする)別の定義なのか、それとも、これもまたあくまで「経済的概念」の範囲にあるものと考えるべき事柄なのか、そのあたりを念頭に置いて先へまいりましょう。

とりあえず以上で第1段切りの解読を締め括ることといたします。
第2段切りは、月があらたまってからそろそろと(笑)。
 

ロバート・サーヴィス『レーニン』

 投稿者:*鬼薔薇  投稿日:2007年 3月28日(水)00時15分3秒
編集済
  河合秀和訳、上下2巻、岩波書店、2002年刊

2000年に出たこの浩瀚な評伝、以前にもご紹介したところですが、英国歴史学の伝統を踏まえたものか、総じて最新の資料を駆使して克明かつ実証的な作品に思えます。レーニンに向ける著者の目はクールで、あちこちにイギリス人らしい皮肉がちりばめられ、また理論・思想面での理解はとても行き届いたものとは言えませんが、思い入れ少なく対象に距離をとっている点、ひとつの価値かと思います。

ただし訳書には、引用文献の邦訳ページが示されていないのが残念(というか不便)。レーニンの著作はロシア語版『全集』第5版に依拠しており、同第4版の翻訳である日本語版とは巻数も対応しておらず、せっかくの文献註がほとんど利用価値のないものになっております。訳者としては、原注からロシア語版全集に当たり対応する日本語版全集でその引用箇所を検索する作業はさぞ大変とは思いますけれど、この種の文献の訳業としては、やはり手抜きといわねばなりません。

その他、関連著作を点検していれば避けられたはずの問題も散見されます。たとえば有名なツィンメルヴァルド会議について、“トロツキーの言葉によれば、マルクスの第一社会主義インターナショナル設立から半世紀後においても、ヨーロッパの国際社会主義者の全員は四台の大型バスに乗せられる程の数であった”(上巻、p.328)とあるのですが、実際の参加者はわずか11ヵ国38名に過ぎなかった(ドイッチャー)のですから、当時の「大型バス」がどんな代物であったにせよ4台など要るはずなかったとすぐわかりましょう。トロツキー『わが生涯』にあたってみれば「大型バス」ではなく「乗用車」だったことを確認できます。原著で「乗用車」が「バス」となっていたなら不注意かもわかりませんが、訳者はここでは“ヨコのものをタテにする”だけの作業に終始していたことがわかります。

もうひとつ、これは内容理解に入り込むことですが、カウツキー論難にあたってレーニンが“カウツキーは「万人のための娘」――ドイツ政府との衝突が避けられるものなら、政治生活に携っているものなら事実上誰とでもベッドをともにする政治的売春婦――だと、かれは主張した”という記述があるのですね(上巻、p,330)。実はこの罵倒語はレーニンのものではなく、レーニンに先行していたカウツキー批判者・ローザ・ルクセンブルクのものでした。これは以前に少し立ち入った点なので今回は指摘だけにしますが、あの罵倒男レーニンならこんな下品な言葉も使いかねない、あるいは女性であるローザ・ルクセンブルクが論敵を非難するのに娼婦呼ばわりするなど考えられない、といった先入観や性的偏見がまといついている問題ですから、事実関係について訳注を付してしかるべきところと思います。もっともこの訳書、いわゆる「訳注」はないのですけど。
 
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【第10章】4 第1段切り(3) 補足:「過渡」と「前夜」の認識次元

 投稿者:*鬼薔薇  投稿日:2007年 3月28日(水)00時13分22秒
  過去ログから再掲した先のメモ(03年9月)で、わたしこう書いておりますね。

>>革命勃発後に書かれた「序文」、権力を掌握した立場で書かれた「〔未刊に終った〕仏独語版序文」では“前夜”と言っているのに対し、『帝国主義論』と同年に執筆された「分裂」論文では、検閲への考慮は不要であるにも関わらずこの表現をとってはおりませんが、いずれにせよこれら一連の発言で「過渡」「移行」「前夜」と言われた認識が、ものごとの客観的な意味についての認識であることは明白でございましょう。言いかえれば、歴史における客観的な意味としてみれば「独占」は資本主義から「社会主義」への過渡であり、「帝国主義」はプロレタリア革命の前夜である、このレーニンの認識次元は明白と思います。(下線はこのたびのもの)

読み返すと、当時は未だテキストの読みが足りなかったことを痛感させられます。「過渡」もしくは「移行」と「前夜」という用語法の差違には、本文執筆の「16年」と帰国後序文の「17年以後」とのあいだの落差がに横たわっていたはずなのに、“いずれにせよ”などという表現でつないでしまっているのは、そこへ確と目が届かず、二つの年の落差を捉え得ていないがゆえの曖昧な表現であったと思わぬわけにはまいりません。

亡命先のスイスで『帝国主義論』や「分裂」論文をシコシコ書いていた1916年、レーニンにとって切実な現実は荒れ狂う「ヨーロッパ大戦」であり、そのもとで社会主義運動が直面した特殊な困難でございました。そのとき彼と彼の「党」にとって、「プロレタリア革命」は未だ信念――それがどれほど確固たるものだったとしても――に過ぎず、現実の革命はなお地平線の下にあったこと、年明け17年1月の次の表白から明瞭と存じます。

「われわれ老人たちは、おそらく、生きてこのきたるべき革命の決戦を見ることはないであろう。しかし、私は、固い確信をもって、つぎのような希望を述べてよいと信じる。それは、スイスや全世界の社会主義運動でこのようにりっぱに活動している青年諸君は、きたるべきプロレタリア革命で闘争するだけでなく、さらに勝利もする幸福をもたれるであろう、ということである」(「一九〇五年革命についての講演」、邦訳『全集』23巻、p.277-8)。

このときレーニンは男盛りの46歳。平均寿命の伸びを考えれば今なら50代半ばくらいだとしてもまだ「老人」と呼ぶには早かったはず。青年労働者相手の講演だったのでこんな言い方をしたのかもわかりませんし、この時期けっこう落ち込んでいたのも事実のようですが、それを割引いてみても、これは単なる「悲観論」ではなく、プロレタリア革命は不可避であるという“固い確信”はあっても実際の革命がいつ起こるかはまったく霧の中だったことを示すものと思います。そしてこの講演の翌月、故国ロシアで「二月革命」が勃発いたします。それはレーニンを含む亡命革命家たちにとって、予想を超えた事件でございました[*]。

「自由競争の地盤のうえに、しかもほかならぬ自由競争のなかから成長する独占は、資本主義制度からより高度の社会=経済的制度への過渡だ」(『帝国主義論』第10章〔前出〕)。
「資本主義から生じる独占は、すでに資本主義の死滅であり、資本主義から社会主義への移行の始まりである」(「分裂」論文)。

“ものごとの客観的な意味についての認識という…認識次元”と書きましたのは、「二月革命」前の時期の認識にこそ当てはまるものであり、対して「帝国主義は社会主義革命の前夜」(序文)という言葉は、革命が現実のものとなった時点でのもの、ひとつの結果認識として、認識次元を区別すべきところでございましょう。

後者は決して「理論的予測」や「客観的法則性」の次元にあるのではないことを、ここで確認しておきたく思います。「帝国主義戦争の必然性」(第7章末尾)のテーゼも実は同じことで、『帝国主義論』は、現実に起こってしまった戦争がなぜ起こらざるを得なかったか、その必然性を論証し、その戦争に対する根源的な批判=闘争を企図したものであって、時空を超えた普遍的な「法則」を述べたものではございません。世の「教条主義」というのは、あれこれのテーゼをそれが成り立つ条件から切断して超越的な「法則」(絶対真理)へ“高め”てしまう心的構造を言うのでございましょう。

これは、およそ革命観というものを考えるとき、理論的予測(必然論)と「目的意識性」と政治集団の「恣意性」とを区分けする上で、きわだって重要な問題と思います。ここには、「軍備撤廃」スローガンをめぐる戦時下の国際社会主義者のあいだでの論争、1905年革命の教訓から引き出される革命権力「ソビエト」論、あるいはまたスイス亡命中の「哲学」研究とボグダーノフ批判の含意など、いくつもの論点が関連してまいりましょう。それぞれまた考える機会を持ちたく思いますが、ここ『帝国主義論』まわりについていえば、カウツキー批判の位置と軸もまた、こうした問題圏において捉えなおされるべきかと存じます。

以上、ちょっと寄り道ふうの補足ですが、第7章でそれまでの叙述を総括して、

「帝国主義とは独占体と金融資本との支配が形成されて、資本の輸出が顕著な意義を獲得し、国際トラストによる世界の分割がはじまり、最大の資本主義諸国による地球の全領土の分割が完了した、そういう発展段階の資本主義である」(岩p.146/国p.116/濤p.145)。

という定義=第一の根本規定を与えた後、これは「基本的な純経済的概念」に「限定されている」(岩p.146/国p.116/濤p.145)とし、「あとで見るように、……資本主義一般にたいする資本主義のこの段階の歴史的地位とか、あるいは労働運動の内部における二つの基本的傾向と帝国主義との関係とかを念頭におけば、帝国主義についてこれとは違った定義をすることができるし、またしなければならない」(前同)としておりました(前出)。

すなわち第10章は、“労働運動の内部における二つの基本的傾向と帝国主義との関係”という観点から「帝国主義とは腐朽しつつある資本主義である」という第二の根本規定を導いた第8(〜9)章を受け、“資本主義一般にたいする資本主義のこの段階の歴史的地位”が取り上げる位置にあること、「帝国主義の歴史的地位」という章の標題そのものが示しているはずでございます。そこでなぜ「社会化」問題が重要な意味を持つのか、後段を読み進めながら考えてまいりましょう。


[*] このときチューリヒにあってロマノフ朝の突然の瓦解を知った亡命革命家たちの驚き歓ぶさまは、ロバート・サーヴィスの評伝『レーニン』が活きいきと描き出しております。

《その日は、チューリッヒの亡命者仲間たちとの大騒ぎの会合で終わってしまった。握手をしあい、祝福の言葉を交し、革命家を歌った――レーニンは、そのような機会にはバリトンの声で歌うのが好きであった。ナジェージダ・コンスタンチノヴナ〔クルプスカヤのこと―引用者〕はお祭り騒ぎで我を忘れ、その日のことは何も思い出せなかった》(邦訳下巻、p.12-13)。
 
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〔回顧・懐古〕

 投稿者:*鬼薔薇  投稿日:2007年 3月25日(日)00時32分27秒
  先には2年半前の第7章レポート、今度はさらに1年さかのぼって3年半前の第1、2章レポートを過去ログから引っ張り出してみたわけですが、柄にもなくそこはかと感慨を誘われますね(苦笑)。3年半前にはタグの使い方も知らず強調部分を*―*で囲んでいたり、ジュニアさんご紹介の聴濤訳を見る前だったので岩波文庫と国民文庫のページ数しか示していなかったり、引用文はもっぱら副島訳・国民文庫に拠っていたり。そして、開始から1年で7章まで割と順調なペースで読み進んでいたこと、以後の間延び〜長期停滞と対照的でございます。その後のメンバーの拡散を併せて考えれば、「読書会」としては“破産”してしまった事実を再確認させられます。

03年9月の「社会化」メモの最後にあるホワイトカラー労働の質的変化=旧「職員」層の「労働者化」という記述には、当時読んでいたネグリ/ハートの『<帝国>』の影響もうかがえますが、その解読も放置されてきたこと、併せて重たい負債の気分を否めません。

事実をふまえつつ、今はただ現在の地点を見据え直して進みましょう。
 

【第10章】3 第1段切り(3) 旧稿再掲:「独占」と「社会化」

 投稿者:*鬼薔薇  投稿日:2007年 3月25日(日)00時30分43秒
  前々回、「独占の四つの主要姿態」に触れて“第1章からの全叙述を貫く「社会化」という視軸をここで再確認しておくべきところ”と注記し、前回にはアンチョコ本から、原田教授のも同部分に関連するコメントをご紹介し、2年半前の第7章レポートから関連部分を引いたところですが、読書会の初めの頃、第1、2章をレポートしていたときにもこの点をメモしておりました。旧稿再掲が続きますが、問題の重要性にかんがみて敢えて過去ログからそのメモを。
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「社会化」「なにものかへの過渡」:検討素材 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 〔2003年〕9月16日(火)21時25分53秒

「国家独占」に触れてのTAMO2さんとの意見交換は、「国家独占」の是非というより、『帝国主義論』が繰り返し問題視している「社会化」、そして「なにものかへの過渡」に関わっているというのがわたしの理解でございます。そこでまず検討素材として、テキスト本文、「序文」ならびに同時期の他文献から関係部分を抜書きしてみましょう。

1 本文から

●第1章
「競争は独占に転化する。こうして生産の社会化がいちぢるしく前進する。とくに、技術上の発明と改善の過程が社会化される」(岩p.43/国p.33)。

「資本はその帝国主義段階で、生産のもっとも全面的な社会化にぴったり接近する。それは、資本家たちを、その意志と意識とに反して、競争の完全な自由から完全な社会化への過渡の、ある新しい社会秩序へ、いわば引きずりこむ」(岩p.43/国p.33)。

「商品生産が従来どおり『支配』しており、それは経済全体の基礎と考えられているとはいえ、実際にはそれはすでにそこなわれ、主要な利潤は金融的術策の『天才』の手に帰するような状態まで、資本主義の発展はすすんだ、と。これらの術策と詐欺の基礎には生産の社会化がある。しかしこのような社会化までこぎつけた人類の巨大な進歩が、……投機者を利することとなっているのである」(岩p.45/国p.35)。

●第2章
「古い資本主義、自分にとって無条件に必要な調節器である取引所をもつ自由競争の資本主義は、過去のものとなりつつある。それにかわって、なにか過渡的なもの、自由競争と独占との混合物とでもいうものの明白な特徴をもつ、新しい資本主義が到来した。そこで当然、この最新の資本主義は*なにへ*『移行』しつつあるかという問題がおこるのだが、この問題を提起することをブルジョア学者たちは恐れているのである」(岩p.67/国p.52)。

「シュルツェ−ゲーヴェルニッツのこの告白はまたしても、最新の資本主義、帝国主義段階の資本主義が、なにへの過渡であるかという問題に通じる」(同)

「古い資本主義は寿命がつきた。新しい資本主義はなにものかへの過渡である」(岩p.75/国p.59)。

2 序文から

〔序文〕
「帝国主義は社会主義革命の前夜である」(岩p.12/国p.8)。

〔フランス語版およびドイツ語版への序文〕
「帝国主義は、プロレタリアートの社会革命の前夜である」(岩p.23/国p.17)。

3 他文献から

〔帝国主義と社会主義の分裂〕(1916年10月)
「資本主義*から*生じる独占は、*すでに*資本主義の死滅であり、資本主義から社会主義への移行の始まりである。帝国主義による労働の大がかりな*社会化*(弁護論者のブルジョア経済学者が『絡みあい』と呼んでいるもの)も、やはりこのことを意味する」(研究所訳『レーニン選集』第6冊、p.174)。

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「社会化」「なにものかへの過渡」:論点提起 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 9月16日(火)21時26分54秒

革命勃発後に書かれた「序文」、権力を掌握した立場で書かれた「〔未刊に終った〕仏独語版序文」では“前夜”と言っているのに対し、『帝国主義論』と同年に執筆された「分裂」論文では、検閲への考慮は不要であるにも関わらずこの表現をとってはおりませんが、いずれにせよこれら一連の発言で「過渡」「移行」「前夜」と言われた認識が、ものごとの客観的な意味についての認識であることは明白でございましょう。言いかえれば、歴史における客観的な意味としてみれば「独占」は資本主義から「社会主義」への過渡であり、「帝国主義」はプロレタリア革命の前夜である、このレーニンの認識次元は明白と思います。

では、その主体的な要因は? 「独占」の中にどのような主体的要因が胚胎していると考えられるのでしょうか。TAMO2さんご関心の「ソ連社会主義」の問題もそこに関連していたはずですね。『帝国主義論』は、その点については何を語っている、あるいは語っていないのでしょうか。これまで読んできた範囲で関連しそうなところ、次の2点かと思われます。

●耐えがたい抑圧
「生産は社会的となるが、取得は依然として私的である。社会的生産手段は依然として少数の人々の私的所有である。形式的にみとめられる自由競争の一般的なわくは、依然として残っている。そして少数の独占者たちの残りの住民にたいする抑圧は、いままでの百倍も重く、身にこたえ、耐えがたいものとなる」(岩p.43/国p.33)。

これは、「被抑圧階級の貧困と窮乏が普通以上に激化する」という「革命情勢」の3つの主な兆候(『第二インターナショナルの崩壊』、国民文庫版、p.37)のひとつを基礎付けるものと申せましょう。しかしそれだけでは十分ではありません。社会化された生産を統制し管理する「革命的階級の能力」(同)が準備されねばなりません。その客観的な基礎が「独占」そのもののうちに見出されねば「前夜」とは申せぬ道理でございましょう。

●シュルツェ−ゲーヴェルニッツの“告白”
「三〇年まえには、自由に競争している企業家たちは、『労働者』の肉体労働の分野に属さない経済活動の十分の九を遂行していた。いまでは、*雇い人*がこの経済的精神労働の十分の九を遂行している。銀行業はこの発展で先頭を切っている」(岩p.65-6/国p.52)。

この引用に続けて「最新の資本主義、帝国主義段階の資本主義が、なにへの過渡であるかという問題に通じる」と書いたとき、レーニンの脳裏には、資本家抜きで経営を担える労働者という像が、さらには、かつてマルクスが思い描いた「肉体労働の鉄鎖からの解放」=労働者の全面的な能力の発達という未来像が、浮かんでいたようにわたしには思われます。

しかしこの“雇い人”層は実態としては、いわゆる「賃金労働者」から区別される「ホワイトカラー」層つまりサラリーマンですね。「サラリー」は労働者の「賃金」ではありません。工員に対する職員、吏員に対する雇員という階層分化の問題が、「革命的プロレタリアート」像を引き裂くようにここに現れます。それはまた、『帝国主義論』の後段で述べられる「買収」された「労働貴族」の問題とも交差いたしましょう。しかし現代は産業に占める製造業の比率が下がり、ホワイトカラー層は大半が「労働者」化しております。それはどのような可能性を孕んでいるのでしょうか。言い換えますとこの変化を、革命的階級の形成という課題のなかにどのように定位すべきなのでしょうか。

以上、とりあえずの論点提起とさせていただきます。
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〔雑談〕

 投稿者:*鬼薔薇  投稿日:2007年 3月21日(水)23時15分11秒
  第7章を読み始めたのは、もう2年半も前の2004年9月のこと。途中で話題も広がり、カウツキー「超帝国主義論」の原論文を捜し求める旅やカウツキー伝の繙読など、12月まではかなり盛り上がりましたけれども、新資料にもとづく「カウツキー批判の意味」考察がなんとなくだらけ、後味の悪いものを残してしまいました。蘇丹・加里耶夫さんは当板のそんな状態を、苦々しく眺めておられたのではないかと思い、恥ずかしくまた申し訳なく思います。

この間に、「掲示板」ひとつだけの「読書コーナー」から、今のホームページ方式へ転じ、次第にページも増えて“成長”してはきたのですが、テキスト解読という本来の目的に照らしてみますと、臨夏さんは次第に「欠席」が目立ち、ジュニアさんは周辺のご事情で「中退」され、その他の方々からのコメントも次第に減っていって、「読書会」の内実はむしろ痩せ細ってきたこと、顧みて確認を迫られます。心して最後の章を読み進める心算でございます。
 
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