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【第10章】7 第2段切り(2) 帝国主義と日和見主義

 投稿者:*鬼薔薇  投稿日:2007年12月13日(木)12時25分46秒
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  顧みれば本2007年はロシア革命から90年目ですね。悠々と、いえ、てれてれと続けてきたこの読書会もテキスト総括篇というべき最終章ですが、前回までの経緯をまとめておきますとこんな有様。

【第10章】1 第1段切り(1) 独占の4つの主要な姿態  2007年 3月18日(日)
【第10章】2 第1段切り(2) 「独占」記述の意味  2007年 3月21日(水)
【第10章】3 第1段切り(3) 旧稿再掲:「独占」と「社会化」  2007年 3月25日(日)
【第10章】4 第1段切り(3) 補足:「過渡」と「前夜」の認識次元  2007年 3月28日(水)
【第10章】5 第1段切り(4) 「基本標識」と「主要な姿態」  2007年 3月31日(土)
と、このあたりまでは順調だったのですが、そこからぐっと間が空いてしまって
【第10章】6 第2段切り(1) 金利生活者国家と資本主義の寄生性  2007年 5月27日(日)

以来半年余り空白が続いてしまいました。“始めは**のごとく、最後は脱兎のごとく”、残りの部分を(できれば年内にも)読み上げてしまいたく思います。

第2段切りで残った最後の長いパラグラフは次のように書き出されます。

「多くの産業部門のうちの一産業部門、多くの国のうちの一国、等々で、資本家たちによって独占的高利潤が獲得されることは、労働者の個々の層を買収し――一時的に、しかもかなり少数のものにすぎないが――、それらの労働者を他のすべての労働者に対立させて、当該部門あるいは当該国のブルジョアジーのがわにひきつける経済的可能性を、彼ら資本家にあたえる。そして、世界分割をめぐる帝国主義諸国の敵対関係の激化は、この志向を強める。こうして、帝国主義と日和見主義との結びつきがつくりだされる」(岩p.202-3/国p.163/濤p.206)。

ここは、いわゆる「寄生性と腐朽」を扱った第8章、特にその第三段切りの「労働者を分裂させ、労働者のあいだで日和見主義を強め、労働運動の一時的頽廃をうみだすという帝国主義の傾向」という論述を受けてのものであることはすぐわかります。けれどもまたこの文章からは、いろいろな問題が浮き上がってくることも見逃せません。たとえば…

“世界の分割をめぐる帝国主義諸国の敵対関係の激化”は、イデオロギー的には国民のなかに「排外主義の蔓延」を産むはずですが[*]、そうしたイデオロギー的統合と労働者の階層分化とはどう関連するのか。あるいは、この特定の労働者層の「買収」と資本制それ自体の「寄生性」とはどう関連するのか――そうした「買収」がなされなくとも「寄生性」は独立して進むのではないか。さらにはまた、日和見主義が“一時的に、しかもかなり少数のものにすぎない”というのは、その後の歴史に照らしてみると一種の希望的観測の言葉にすぎなかったのではないか。等々…。特に最後の点は、第二次世界大戦以後に前面化した「大衆社会」時代以降今日に至る「プロレタリアート」像を「国民」像との関わりを含めて再吟味するうえでも重要と思います。実際、第一次世界大戦は始めての「国民総動員」体制による戦争、敢えて申せば「国民戦争」であったわけですし、その「戦争体験」が「国民体験」として継承されたこと、それ以前の諸「戦争」とは大きくちがっていたことでしょう(日本については「第一次大戦」は“半戦争”にすぎなかったわけですが)。

[*] 参照している3種の訳のうち副島訳(国民文庫)はこの「帝国主義諸国の敵対関係」を「帝国主義諸国民の…」と訳出しており、このイデオロギー的な側面を強く含意しております。英語で言えばたぶん‘nation' に当たるのだろう原語の文脈上の理解が問われるところかもわかりません。

このパラグラフ後段で(マルトフの名を挙げて)「労働運動における帝国主義と日和見主義との結びつきの事実――いまではとくに強く目につく事実――をつとめて見まいとして」いると批判しているところは、このテキストが世界戦争のさなかにおける社会主義運動の分裂という事態のなかで著者が自らの党派的立場を鮮明にするという政治的コンテキストからして当然ではございましょう。

ここで俎上にのぼせている「楽天主義」、すなわち“もしほかならぬ先進資本主義が日和見主義の強化にみちびくものならば、あるいはほかならぬもっともよい賃金をえている労働者が日和見主義に傾いているとするならば、資本主義の反対者たちの事業は望みなきものとなるであろう、云々”という論法に対して、「これは日和見主義についての天主義であり、日和見主義の隠蔽に役立つ楽天主義である」と論難するのは、当時の党派関係を念頭において読む限り、しごく妥当なものと思います。この論旨の実践的背景を理解する上では、この論点を全面展開した論文「帝国主義と社会主義の分裂」と併せ読むことが、必要となりましょう(当該のマルトフの主張もそこに元文の引用がございます)。

ただし、それに次いで持ち出された「腫れ物」の比喩には注意が必要かと。

「実際、日和見主義の発展の特別の速度と特別の醜さとが日和見主義の永続的勝利の保障となるものではないことは、ちょうど、悪性の腫物の発展のはやいことが、健康な肉体にとっては、その腫れ物がつぶれて身体からなくなるのを促進するにすぎないのと同じである」(岩p.203/国p.163/濤p.207)。

まず事実の問題として、レーニンが繰り返し「日和見主義の先進国」として例に出すイギリスの場合はどうだったでしょうか。“日和見主義の発展の特別の速度と特別の醜さ”が表出したかの世界帝国において、“その腫れ物がつぶれて身体からなくなるのを促進するにすぎな”かったでしょうか。実際には、イギリス労働運動は、老エンゲルスが嘆いたような状態から総体として抜け出すことはついになかったはずでございます。上のような論述は、先に第九章に示されたレーニン自身のイギリス労働組合運動認識とも符合しないものであり、その意味で「レトリック」と申さねばなりません。

より悪ければそれだけいっそう良い、というこの反転的なレトリックは、過激な心情から容易に転がり出るもののようで、毛沢東などにも時折みえるものですが、わたしこの種のレトリックを好みません。ここには決して小さくない毒素・危険が孕まれていると思うためでございます。実際、第一次大戦後のドイツ共産党がこの種のレトリックでナチスの伸張を“正当化”した故事を顧みるとき、戦闘的大衆を鼓舞するという主観的な願望とは逆に、このレトリック自体が別の「日和見主義」の温床となる道筋が見えるはずでございます。それが肥大化すれば、「負け犬」が現実の「負け」から目を逸らし別な観念空間で自閉することともなりましょう。「スターリン主義」の思想体質にそうしたものをわたし感じますし、実際、後年の悪名高い「社民主要打撃論」とはそのような心理機制を基礎に持っていたのではなかったでしょうか。

現実の労働組合運動にはさしたる影響力を持てないまま(あるいは持てないが故にこそ)、肥大化した「労働者階級」の観念が物神化されて「党」のイデオロギーを構成するとき、現実に労働組合に組織された労働者の上に君臨する指導部を告発することで「下部戦闘的労働者」をその影響力から切り離し組織できるという考えが頭を金縛りにする道筋は、決して視にくいものではございません。亡命地スイスにあって戦争を迎え、社会主義の分裂に身を晒していた極小党派のリーダーたるレーニンのなかにも、優れた現実感覚と並んでそうした心理が働いていなかったと断言することはむづかしいように感じます。

「帝国主義に対する闘争は、それが日和見主義にたいする闘争と不可分にむすびついていないならば、一つの空疎で虚偽な空文句にすぎない、ということを理解しようと欲しない人々ほど危険なものはない」(岩p.203/国p.164/濤p.207)。

こうした言辞を、それが置かれていた歴史的文脈を離れて一般化することには、十分な注意が必要でございましょう。
 

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