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【第10章】9 第3段切り(1):帝国主義=「死滅しつつある資本主義」

 投稿者:*鬼薔薇  投稿日:2007年12月19日(水)00時08分7秒
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  さて、いよいよテキスト解読も最終場面を迎えました。
この段切り冒頭で、「帝国主義」についての第三の(総括的な)根本規定がまず与えられます。すなわち――

「帝国主義の経済的本質について以上のべたすべてのことから、帝国主義は過渡的な資本主義として、あるいはもっと正確にいえば、死滅しつつある資本主義として、特徴づけなければならないという結論が生じる」(岩p.203-4/国p.164/濤p.208)。

結論をまずゴロリと転がしておいてさておもむろにその内容を論述するという、例のレーニン流ですが、ここで、世に『帝国主義論』と略称されるこのテキストの書名が「資本主義の最高の段階としての帝国主義」であることを想起いたしましょう。“最高の段階”とは、文字どおりそれ以上の段階はないことを示します。ではこの書が書かれてこのかた1世紀になろうとする時間はなんであったのか、資本制はこの間にレーニンが想定しなかった未曾有の展開・成長を遂げたのではなかったか、“最高の段階”は次々と塗り替えられて来ており、レーニンの言う“最高の”はとっくに乗り越えられているのではないのか?

たしかにレーニン以後も時代の節目ごとに「現代帝国主義」が激しい議論を呼んできたこと自体、この疑問を正当化するもののように思われるかもわかりません。第一次大戦後の「全般的危機」論にせよ、第二次大戦後における「国家独占資本主義」論にせよ、レーニンが視て描いたのとは異なる段階を捉えようとする理論的-実践的な問題関心に支えられていたにちがいなく、情勢に励起された実践的関心の意味内容を抜きにして「普遍理論」的に語ってみても、核心に触れる批判とはならぬと存じます。

けれども、ここで“最高の段階”といい“死滅しつつある”というのは、決して“もはやこれ以上の発展はない”という「成長段階」論的な意味ではなかったこと、帝国主義とは資本主義が内在させる自己否定の契機が自己展開するに至った、そのような段階であることを意味する言葉だったこと、上の第三の根本規定に続く論述から明瞭に読み取れようと存じます。

「この点できわめて教訓的なのは、最新の資本主義について書いているブルジョア経済学者が、『からみあい』、『孤立性の欠如』等々ということばを慣用的にもちいていることである。すなわち、銀行はその任務からしても、その発展からしても、純然たる私経済的な性格をもたない企業であり、純然たる市経済的な規制の範囲からますます脱しつつある企業』である、というのである。しかも、右の引用句の筆者であるリーサーその人は、きわめてまじめな顔つきで、『社会化』にかんするマルクス主義者の『予言』は『実現しなかった』と声明しているのである!」(岩p.204/国p.164/濤p.208)。

このリーサーは(ヤイデルスやシュルツェ=ゲーヴァニッツと並んで)これまでもたびたびその提供するデータとともに紹介されてきた「ブルジョア経済学者」のひとり。その名を引きつつ加えられた第2章のコメントを振り返れば、上の文言の含意、一段と明らかになりましょう。

「古い資本主義、自分にとって無条件に必要な調節器である取引所をもつ自由競争の資本主義は、過去のものとなりつつある。それにかわって、なにか過渡的なもの、自由競争と独占との混合物とでもいうものの明白な特徴をもつ、新しい資本主義が到来した。そこで当然、この最新の資本主義はなにへ『移行』しつつあるかという問題がおこるのだが、この問題を提起することをブルジョア学者たちは恐れているのである」(岩p.67/国p.52/濤p.64-5)。

これら「ブルジョア学者たち」が内的連関を捉ええず単なる現象として観察するほかなかった「からみあい」を、レーニンは「社会化」として把握いたします。それは資本制それ自身の自己展開が生み出した自己否定にほかなりません。その論理必然的な帰結をテキストは語ります。

「株式の所有や、私的所有者の諸関係が『偶然にからみあっている』という。だが、このからみあいの背後に横たわっているもの――このからみあいの基礎をなしているものは、変化しつつある社会的生産関係である。……(中略)……われわれの目の前にあるものは生産の社会化であって、けっしてたんなる『からみあい』ではないこと、私経済的および私有者的諸関係は、もはやその内容に照応しなくなっている外皮であって、この外皮は、その除去が人為的にひきのばされるばあいには、不可避的に腐敗せざるをえないものであり、また、比較的長いあいだこの腐敗状態をつづけることがありうる……にしても、しかし結局はかならず除去されるであろうということ、が明白となるのである」(岩p.204-5/国p.164-5/濤p.209-10)。

同様の認識を、当時のロシアで合法出版物に課せられた「イソップの言葉」から自由な党出版物で確認しておきましょう。

「帝国主義が死滅しつつある資本主義、社会主義へ移行しつつある資本主義であるという理由は、明らかである。資本主義から生じる独占は、すでに資本主義の死滅であり、資本主義から社会主義への移行の始まりである。帝国主義による労働の大がかりな社会化(弁護論者のブルジョア経済学者が『絡みあい』と呼んでいるもの)も、やはりこのことを意味する」(「帝国主義と社会主義の分裂」、旧版『レーニン選集』第6分冊、p.174/大月版『全集』第23巻、p.114。アンダラインは元文傍点)。

以上の叙述、実は第1章「独占」論で原理的に指摘された問題の展開にほかなりません。

「生産は社会的になるが、取得は依然として私的である。社会的生産手段は依然として少数の人間の私有である。形式的に認められた自由競争の一般的な枠はのこっているが、少数独占者のその他の住民にたいする圧迫は、いままでより百倍も重く、きびしく、たえがたいものとなる」(岩p.43/国p.33/濤p.43)

生産の社会性と取得=所有の私性という、資本制に内在する矛盾は、ここ帝国主義段階に至って全面化し深化し激化すること、この矛盾の解決が本格的なテーマとして人類史に登場したこと、それは従前と異なる性格の社会変革、根柢からの「革命」を具体日程にのぼせていること、それこそこの第10章が表題とする「帝国主義の歴史的地位」にほかなりません。すなわち、

「帝国主義は、プロレタリアートの社会革命の前夜である」〔フランス語版およびドイツ語版への序言〕(岩p.23/国p.17/濤p.21)。

旧体制を打倒した後に書き付けられたこの文言が、凡百の浅薄なアジテーションではなく、新世紀における革命の世界-史認識にほかならぬこと、帝国主義打倒を課題とするプロレタリア革命とは、「競争の完全な自由から完全な社会化への過渡をなすある新しい社会秩序」にふさわしい政治的統治形態(プロレタリア独裁権力)を創出する事業であるとする含意、ここに確認できると存じます。
 

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