投稿募集! スレッド一覧

スレッド作成 他のスレッドを探す

[PR] 求人募集 グアム格安旅行 求人・転職 seo対策 物流コスト
teacup. ] [ 無料掲示板 ] [ プレミアム掲示板 ] [ teacup.コミュニティ ] [ ブログ ] [ チャット ]
【From teacup.】この掲示板は投稿が一定期間無いため、各記事中に広告を表示しています。

新着順:8/457 記事一覧表示 | 《前のページ | 次のページ》

【第10章】10 第3段切り(2):革命の歴史認識としての『帝国主義論』

 投稿者:*鬼薔薇  投稿日:2007年12月23日(日)00時23分47秒
  通報
  最終章末尾、「ブルジョア学者」のシュルツェ=ゲーヴァニッツがユートピア社会主義者サン・シモンを引用して当時の資本制の新傾向とその行く手を叙述している、大著『社会経済大綱』からの引用文は、どことなく愉快ですね。

「経済的諸関係が統一的規制なしに展開される、という事実に照応する今日の生産の無政府状態は、生産の組織化に席をゆずらなければならない。生産を指導するのは、相互に独立していて、人々の経済的欲望を知らない、孤立した企業家ではなくなるであろう。この仕事は、特定の社会的機関の手に帰属することとなるであろう。より高い見地から社会経済の広い領域を見わたすことのできる中央管理委員会が、社会経済を全社会にとって有利なように規制し、生産手段をこれに適当した人の手にゆだね、とくに生産と消費とのあいだの不断の調和について配慮するであろう。ところが、経済的活動の特定の組織化をその任務のうちにとりいれている機関がある。すなわちそれは銀行である」。

出典が示されていないのは残念ですが、この“天才的なことば”(ゲーヴァニッツ)、結語の「銀行」論を別とすれば、現代のサヨクがそのまま同意しておかしくないものかもわかりません。レーニンは最後に、「マルクスの正確な科学的分析から、天才的ではあったがやはり推測にすぎなかったサン・シモンへの推測への一歩後退である」とコメントしてこの小冊子の叙述を閉じます。それは、自らの叙述が、あらためて“マルクスの正確な科学的分析”の上に問題を据え直したのだという理論的自負の言葉だったのではないでしょうか。「推測」と「正確な科学的分析」のあいだがわずか「一歩」というのも絶妙といえば絶妙な表現、ユートピア社会主義への深い敬意とマルクスが開拓した理論的領野への確固たる確信と、ふたつながらににじみ出ているように感じさせるものがございます。

“死滅しつつある資本主義”の「死滅」とは資本主義の自己否定、そのキーワードが「社会化」。実にこの「社会化」こそ、第1章「独占」論に始まる全叙述を貫く視軸にほかならぬこと、先に第一段切り報告の3回目(3月25日)でも注記したところでございます(以前には副島訳を用いた箇所、あらためて宇高訳でお示しいたします)。

〔第1章〕「競争は独占に転化する。その結果は、生産の社会化の巨大な前進となる。とりわけ、技術上の発明や改善の過程もまた社会化される。……(中略)……資本主義は、その帝国主義段階において、生産のもっとも全面的な社会化にぴったりと接近する。それは、いわば、資本家たちを、彼らの意思と意識とに反して、競争の完全な自由から完全な社会化への過渡をなすある新しい社会秩序に引きずり込む」(岩p.43/国p.33/濤p.42)。

〔第2章〕「古い資本主義は寿命がつきた。新しい資本主義はなにものかへの過渡である」(岩p.75/国p.59)。
「古い資本主義、自分にとって無条件に必要な調節器である取引所をもつ自由競争の資本主義は、過去のものとなりつつある。それにかわって、なにか過渡的なもの、自由競争と独占との混合物とでもいうものの明白な特徴をもつ、新しい資本主義が到来した。そこで当然、この最新の資本主義はなにへ『移行』しつつあるかという問題がおこるのだが、この問題を提起することをブルジョア学者たちは恐れているのである」(岩p.67/国p.52)。

小冊子『帝国主義論』の叙述は、この最終章において、出発点の「独占」論の意味を再確認させつつ、その結論を示していると読むべきでございましょう。それは著者がいうように、問題の「理論的な――とくに経済的な――分析にかぎらなければならなかった」(序言)叙述にはちがいございません。しかしなおその全叙述が表出するものは、一部で好まれることの多い「原理論」-「段階論」といった区別立ての「経済学」レベルを超えて提出される「革命の歴史認識」として受け取るべきものでございましょう。

この認識は、『帝国主義論』の執筆を始めた1916年早春に、来るべきキーンタール会議に向けた提案文書で、ヨーロッパ革命を射程において簡明に表現されております。

「社会主義者は、改良のための闘争をこばむものではない。たとえば、彼らは、いまでも議会のなかで、たとえわずかでも大衆の状態をよくすることにはなんでも賛成し、荒廃した地方の住民への補助金をふやし、民族的抑圧を軽くすることなどに賛成して投票しなければならない。しかし、歴史と現実の政治的事態とが革命的に提起している諸問題を解決するのに改良を説くことは、まったくのブルジョア的欺瞞である。いまの戦争が日程にのぼせている問題は、まさにそのような問題である。それは、帝国主義の根本問題である。すなわち、資本主義社会の存在そのものにかんする問題であり、この数十年間にすばらしく急速に発達したばかりか、――これが、とくに重要な点だが――異常に不均等に発展した諸『大』国のあいだの新しい力関係に応じて、世界をあらたに分けなおすことによって、資本主義の崩壊をさきに延ばす問題である。たんに大衆を口さきで欺瞞するのでなしに、社会諸勢力の相互関係を変化させるほんとうの政治活動は、いまではつぎの二つの形態のどちらかでしか可能でない。すなわち、『自』自国のブルジョアジーが他国を略奪するのをたすける(そしてこの援助を、『祖国擁護』または『救国』と呼ぶ)か、それとも、プロレタリアートの社会主義革命をたすけ、すべての交戦国ではじまっている大衆のあいだの動揺を支持し発展させ、はじまりかけているストライキや、デモンストレーションなどに協力し、まだ弱い、革命的大衆闘争のこれらの現われを拡大させて、ブルジョアジー打倒のためのプロレタリアートの総攻撃とするかである」(「第二回社会主義者会議へのロシア社会民主労働党中央委員会の提案」(『全集』第22巻、p.197)。

この認識から引き出された「帝国主義戦争を内乱へ!」という歴史的テーゼを、半世紀以上も経ってから「日帝のアジア侵略を内乱へ!」などという不細工なゴロアワセに引き降ろして恥じなかった愚劣な所業は、戦時下の亡命革命家レーニンが必死こいて絞りだした革命の世界−史認識からほど遠いものであったこと、それは特定党派に固有の愚劣さではなく、60年代新左翼の政治思想全体が身に帯びていた制約からくる(より正確には、その制約に対する自覚の欠如が生み出した)愚劣さであったこと、そしてこの愚劣さが発生させる毒素に自家中毒を起こしてその後の陰惨な後退を生み出したこと、顧みてはらわたがよじれるような苦々しさを禁じえません。
 

》記事一覧表示

新着順:8/457 《前のページ | 次のページ》
/457