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【総括】1 「革命の歴史認識」

 投稿者:*鬼薔薇  投稿日:2008年 2月 4日(月)21時06分39秒
  通報 編集済
  先の解読レポート最終回で、「革命の歴史認識としての『帝国主義論』」と申しました。

「革命の歴史認識」とはどういうことか。それは単なる対象認識ではなく、主体の契機を内に孕むものであることを意味いたします。では『帝国主義論』はそれをどのように表出しているのか、先の引用文に立ち返って考えてみましょう。

「われわれの目の前にあるものは生産の社会化であって、けっしてたんなる『からみあい』ではないこと、私経済的および私有者的諸関係は、もはやその内容に照応しなくなっている外皮であって、この外皮は……(中略)……かならず除去されるであろう」(第10章第3段切り、前出)。帝国主義は「死滅しつつある資本主義、社会主義へ移行しつつある資本主義である」(「帝国主義と社会主義の分裂」、前出)。

この“「外皮」の除去”すなわち「社会主義」への移行は決して自動的に進む過程ではなく、人間の意志的行為なしにはありえません。あえてものごとの「純経済的」側面に限定された『帝国主義論』の叙述は、しかしそれ自体が(しばしばそう扱われるような)「経済理論」なわけではなく、この意思的行為の担い手=社会主義革命の主体の存在認識を強く含意していることを読み取るべきでございましょう。その主体を一般名で呼べば「労働者階級=プロレタリアート」ですけれども、それが原理的存在概念ではなく現実態において把握されるところが「主体」概念の「主体」的なところと申すべきでございましょう。

戦争という新たな契機に促されるようにして当の「階級」自体が歴史的な分解=分裂を生じている現実を見据えた記述は、「労働者階級」がもはや第二インタナショナル時代のような即自存在(「在る」ものとしての「労働者」の総体)として語りうるものではなくなっている現実への冷徹な自覚に貫かれております。レーニンがしばしば用いる「自覚したプロレタリアート」の“自覚”もそうした主体の形成という課題を提示した言葉でしょうし、「日和見主義」批判・カウツキー批判・メンシェビキ批判は、「階級」像そのものの再定義を強く含意する独自の党派性と存じます。ここで「帝国主義」という現実の把握=認識は、同時にそのように把握=認識する側の自己認識と不可分に定立されていることになります。

『帝国主義論』を「経済学」の書として読んでいるかぎり、「帝国主義」は単なる対象記述にすぎぬものとなり、こうした主客の論理関連は射程外に放置されることでしょう。合法出版物ゆえあえて禁欲したとされる「物事の政治的側面」を外挿してみたところで、上の主客関連が忘却されているかぎり問題はさして変わらぬことと存じます。

対象認識と主体意識とのこうした相互規定的な連関、哲学系の方ならたとえばサルトル『存在と無』の〈即自−対自〉連関で理解されるかもわかりません。レーニンの「哲学」自体は、第二次スイス亡命期の哲学研究を含めてもなお古典的「反映論」の立場を脱していたとは思えず、ほぼ同時代を生きたフッサール(1859-1938)が開拓した現象学の世界などとはまるで無縁の人だったにちがいございません。にもかかわらず『帝国主義論』という著作には、上のような論理関連が明らかに表出されていると存じます。

「レーニンの分析のもっとも注目すべき特徴のうちのひとつは、彼が帝国主義を政治的な概念として批判していることである」(ネグリ/ハート『<帝国>』 邦訳p.303、下線は引用者)。

というの記述の“政治的”という言葉も、こうした脈絡において理解すべきものではないでしょうか。

「社会階級」というのは、政治的・意識的にも社会的・現象的にもまた経済的・存在論的にも、異なる次元で概念化できましょう。そして支配の構造が危機を迎えるとき、その存在自体が変貌をやむなくされます。世界大戦勃発はまずなにより政治的に、すなわち「祖国防衛」というイデオロギーをめぐって、それまでの「階級」像が変転いたしました。レーニンにとっての「プロレタリア階級」は、プロレタリア独裁の担い手たりうる権力主体としての「階級」にほかなりません。それは即自存在としての「労働者」一般がその日常的存在を自ら超脱して自己形成すべき社会存在であり、資本制政治支配の危機のなかから姿を現す、そのような存在とイメージされていたはずでございます。「パリ・コンミュン」に向ける視線は明らかにそれを示唆しておりましょう。

階級支配の危機は「階級」の流動・解体を生みその再編成を課題にのぼせます。「ブルジョアジー」対「プロレタリアート」という区分もまたこの流動の動態において再定義されねばなりません。そのような解体・流動が主観的願望の幻影ではなく歴史的現実であることを示すために、その解体・流動の客観的根拠を解き明かすこと、それが小冊子『帝国主義論』の重要な課題であり、そこでものごとの「純経済的側面」に叙述を限定したことは、当時のロシアでの検閲を考慮した妥協にとどまらぬ意味をもったはずでございます。

そうした階級解体・流動の一端、ひとつには対岸にあるブルジョア的知性の動きにみてとることができましょう。第2章「銀行とその新しい役割」では、引用された『バンク』誌のランスブルク論文を評して、「これこそ、ブルジョア・ジャーナリズムの無力さのよい見本である。しかも、ブルジョア・ジャーナリズムにくらべてブルジョア科学が異なるところは、ただ後者がより誠実でないことと、事物の本質をぬりつぶし、木を見せて森を見せまいという努力をしているという点だけである」(岩p.61/国p./濤p.)という否定的なコメントがございます。しかしこれと対照的に、第3章「金融資本と金融寡頭制」には次のような記述がございました。

「金融寡頭制のおどろくべき支配にかんするおどろくべき事実はなんとしても目につくので、現にすべての資本主義国で…ブルジョア的見地に立ちながらも、なおかつ金融寡頭制のほぼただしい様相と批判――もちろん小ブルジョア的な――とをあたえている文献があらわれたほどである」(岩p.79/国p.62/濤p.79)。

こうしたブルジョア的知性が製造業−産業資本ではなく銀行−金融界を足場に登場したことは偶然ではございません。帝国主義段階を特徴づける「銀行の新しい役割」は、個別資本と区別される「総資本的理性」とでもいったものを産出し、その視点から上のような“ほぼただしい”見解も導き出されたという事情を汲み取るべきでございましょう。それは「ブルジョアジー」もまた固有の分化を露出させてた結果と理解すべきものと存じます。その点をレーニンは、次のように指摘いたします。

「資本の所有と資本の生産への投下との分離、貨幣資本と産業資本あるいは生産資本との分離、貨幣資本からの収益によってのみ生活している金利生活者と、企業家および資本の運用に直接たずさわっているすべての人々との分離――これらは資本主義一般に固有のものである。帝国主義とは、あるいは金融資本の支配とは、このような分離が巨大な規模に達している資本主義の最高段階である」(岩p.98/国p.77/濤p.98)。

「労働者階級」が一握りの「上層」とその他広範な「下層」とに分化するように、「資本家階級」もまた分化する、「階級」の解体・流動とはそのように相互規定的に進む過程として掴むべき事柄でございましょう。そして、相対立する両階級のあいだにいわゆる「中間層」が姿を現します。それを普通の社会学が言うところの「階層分化」という静態論ではなく、それ自体が矛盾と変転を孕む動態的なものとしてつかみ出すところに、『帝国主義論』の「革命の歴史認識」たるゆえんもまた鋭く表出されていると思うのでございます。
 

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