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「民主主義」の落差>蘇丹・加里耶夫さま

 投稿者:鬼薔薇  投稿日:2005年11月19日(土)00時25分23秒
  >日本の新左翼が日共との対抗上もあって、依拠した民同・総評は日本の民族・階級構成とは別にそもそもが「一国=一民族」的な存在へと「純化」されていたからこそ、「労働者階級本体論」を軸に組織論を組み立てていった新左翼もこの問題に「鈍感」とならざるを得なかったという「条件」も存在するでしょう。アメリカ的なアナロジーで言えば民同・総評は「左バネ」で左傾化しようが革命化しようが「AFL」でしかなかった、とも言えるかと思います。

70年沖縄闘争のときに沖縄の現地事情を少し聞く機会があったのですが、あちらでは労働運動と学生運動とのあいだに本土(内地)のような隔絶はないというのですね。この段差を考えますと、やはり敗戦革命の敗北が残した負の遺産として歴史的な総括を要するところかとわたし考えてまいりました。50年代の「民主主義」というものの質が、労働運動と学生運動とで大きくちがっていたと思うのですね。そのメルクマールにレッドパージを置くことができましょう。レッドパージが貫徹した職場の労働者にとって「民主主義」というのはいわば“敗北の結果作られた秩序”であり、総評労働運動はその秩序を「守る」位置を与えられていた、それに対して反レパ闘争にとにかくも勝利した全学連運動にとって「民主主義」とは“闘う行動規範”として活きていた、というちがいでございます。

60年安保全学連は、この“闘う行動規範”を直截に表現した運動でした。その安保闘争の「挫折」と全学連の解体で、大学においても“支配秩序としての民主主義”が貫徹していくのが60年代、その下での闘争は“秩序としての民主主義”に対する叛乱という性格を否応なくもつことになります。全員加盟制の学生自治会という組織が闘争機関たりえず、叛乱型の闘いはそれとは異質な「共闘会議」という組織表現をとることになりました。65〜6年早稲田の学費闘争にその典型をみることができます。キャンパスを覆いつくしたバリケードは“闘う行動規範”の再生にほかなりません。「守る」べき価値としての民主主義ではなく闘いの中で自らの秩序を形成する民主主義、それが「自己権力」「二重権力的団結」という言葉の内実であったと存じます。それは、大学キャンパスという物理的・社会的制約のなかにあったとはいえ、ロシア革命における「ソビエト」に通じる性質を帯びておりました。それが孕む可能性という面でも、その可能性をうまく形象化できなかった点でも。それが後に「大衆暴力−武装」の問題に端的に現れたかと。

>また新左翼の場合は鬼薔薇さんがおっしゃるとおり、学生中心であったので実際問題から始めるというより、一回抽象的なレベルでレーニン主義を再構成し、革命論を打ち出したためこの問題を看過したという面もあるかと思います。

結果的にはそのように言えましょう。ただ、学生には学生の「実際問題」があったので、当時を振り返って考えますと、それをうまく掬い取り闘いに方向づけることができなかったという思いが強いのですね。ひとつは、当時の闘いが「大衆社会」化過程にあった日本の中で持った意味を対自化できなかったこと、もうひとつは(中級サラリーマン予備軍である)学生層の社会的な位置からくる「実際問題」を主題化できなかったこと――労働者とちがって学生はずっと学生であり続けるわけではなく一定年月を経て卒業し就職していく過渡的な存在ですが、その卒業と就職という人生コースを対自化した運動と組織を作り出せなかったこと。卒業後の職業選択が明瞭だった教育系学生の「全教ゼミ」運動と医学部の「青医連」運動を例外として、「学生運動」と「卒業・就職」という「実際問題」に自覚的に取り組むことが当時の左翼にはできなかったのでございます。ご指摘のように“一回抽象的なレベルでレーニン主義を再構成し、革命論を打ち出した”のは、さて原因だったのか結果だったのか、考えねばならぬところ多いと感じます。

今、[談話室]のほうで少しやりかけております「民主主義」議論でも、このあたりをうまく繰り込むことができたらと思うのですが。

「学生運動」から「労働運動」へという結びつきは、多く党派内部で「私的」に(したがって個別・部分的に)行なわれました。結果、「労働組合」組織の中にそれなりのポジションを持てると、それがそのまま「労働者階級の一員」になったように思い込んでしまう、そうした即物的な「労働者物神崇拝」に容易に陥ったのではないでしょうか。そのレベルである程度の成果を挙げたのは、社青同(の一部)と革マル派ですね。大方の学生は「学生運動」体験を胸にしまって個々に就職し、行った先で個々の努力によって展望を切り開くほかございませんでした。いわゆる「活動家」ではなかった真面目な「一般学生」がそうした孤独の努力を余儀なくされ、その多くが企業秩序の中で「個別撃破」されていったのですね。そうして自殺に追い込まれた者も知り合いに何人かおります。「民主主義は工場の門前で立ち尽くす」というルポルタージュのタイトルは重いものがございます。もちろん優れた人格とタフな精神をもってその困難を乗り越えていった事例も少なくございません。下記のレポートなどその一例として読まれてよろしいかと存じます。

 望月彰『告発!サイクル機構の「四〇リットル均一化注文」』(世界書院)
 


Re:余談:「1930年代・国家と農民」>蘇丹・加里耶夫さま

 投稿者:鬼薔薇  投稿日:2005年11月18日(金)00時50分48秒
編集済
  映画『大日向村』のこと、たしかずいぶん前に話を聞いた記憶がうっすらあるのですけど、長野の満州開拓団のルポと混濁しているかもわかりません(^^)ヾ

ご提起の主題と離れるかもわかりませんが…

>>
この『草原地帯』はそれ以前無住の荒野だったのでしょうか。19世紀から20世紀にかけて、“多くのフロンティア・スピリットに溢れた開拓農民”が「入植」した草原地帯の先には同じように「石もて追われた」アメリカン・インディアン(ネイティヴ・アメリカン)たちがいたのではなかったのでしょうか。

たとえばオクラホマ州の場合:

http://www.plans.jp/shashinshu/seibu/112.html

スルタンガリエフがコロンブスについて書いた文がありますけど、アメリカの場合ネイティヴ・アメリカンという「外部」の存在を欠くのならば、アメリカ史はピルグリム・ファーザーズから始まる白人移住史へと限りなく「一国的」矮小を遂げてしまうのではないでしょうか。アメリカのネイティヴィズムとはまさにそういう「神話」を基礎にしているのですね。
<<

ここ、規模も政治的文脈をまったくちがいながら、「土地なき民に民なき土地を」のイスラエル建国も同じ論理にあると思うのですね。今日アメリカ合衆国のキリスト教原理主義者が最悪のイスラエル支持勢力を構成しているのは偶然とは思えません(実は「植民国家」という脈絡でみてもイスラエルはミニ・アメリカみたいなところがあると感じるのですが、これはまた別の主題になりましょう)。

1920年代に本格化したシオニストのパレスチナ入植運動はしばしばユートピア建設のように喧伝され、感動的な物語も多く含んでおります。かつて広く読まれたレオン・ユリスの『栄光への脱出』などその最も高純度の作品でしょうか。実際東ヨーロッパ・ロシアのユートピア社会主義思潮(たとえばトルストイ主義)をも含み込みながら展開されたわけで、あらゆる「社会主義」思想は「土地と国家」というものが産み出す神話作用に足をすくわれている面なくない感じを深くいたします。アナキズムから国家主義への回路もおそらくはこのあたりにございましょう。

>この『怒りの葡萄』の紹介文で描かれたような「土地」の収奪史は、過去のアメリカの話だけではなく現在中国の内モンゴル地方で進んでいる事態そのものですね。

以下詳述されているように、“「土地と国家」の神話作用”は「資本の論理」に媒介されて現実に貫徹するわけで、大地に根差した「民族」の顕現や、朝鮮半島から日本列島にかけて古くからある「黄砂」の現代的な拡大など、指摘された現象形態を通して「資本の論理」の具体の現実を見て取る方法を会得したいものと思います。

追:1
『栄光への脱出』、犬養道子さんによる上下二巻の訳書はかなりの部数が出たはずなのに古本屋でも見つけにくいですね。なんか誰かが意図的に買い集めて廃棄したような――なんていうと「謀略史観」にはまってしまいそうですど(笑)、そう思っても不思議のないほど魂に触れる作品でございました。少なくともその魅力との対決を経ずに「反シオニズム」など語るのでは決定的に不足、悪くすると「反ユダヤ主義」に足をとられかねません。作者レオン・ユリスは後には親シオニズムから転換したようで、アラブ社会をテーマにした作品を書いたり、『栄光への脱出』の後日談をまとめたりしたようでございます。『もうひとつの社会主義』で当初はイスラエル建国に賛同したマルティン・ブーバーの軌跡もあるいは似たところがあるのかもわかりません。アメリカへ渡った後のハンナ・アレントも。こうしたシオニズムの中から現れた脱シオニズムの歩みは、さほど明らかにされていないと思うのですが、20世紀の「民族」問題を考える上で気になる問題圏のひとつではございます。

追:2
大東亜戦争と「近代の超克」論争につきましては、いずれ機会を改めまして。
有名な昭和17年の雑誌『文学界』の座談会は、少し前に全文が「富山房百科文庫」の一冊で出ていたのですが(手許のものは1990年の第5刷)、今でも入手可能かしら。
追の追:やはりもう新刊では出ていないようでございます。
 
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まとめてレス

 投稿者:蘇丹・加里耶夫  投稿日:2005年11月15日(火)23時59分26秒
編集済
  >鬼薔薇さま

>中国経済の“驚異的発展”を扱ったテレビ・ドキュメンタリーで、30代とおぼしき女性の経営者がりゅうとした身なりでインタビューに応じ、「わが国には低廉な労働力が豊富にある。これが強みだ」と平然と語っていたのが印象的でした。この「低廉な労働力」=国内低賃金層の存在と周辺地域の問題とはもちろん同じでないにしても、今の中国は国内に「植民地(収奪源)」を抱えて成長を遂げている姿を思わせます。そしてこれ、中西部とか南部とか「国境の南」の隣接メキシコとかを考えますと、海外植民地が少なかったアメリカ合衆国に似ておりませんでしょうか。

確かにその点では中国とアメリカは似ていますね。両者の違いは中国が農村部に膨大な過剰労働力を抱えているのに対し、アメリカは低賃金労働を次から次へとアメリカにやってくる移民で支えているというところでしょうか。

ストリングさんの“「エコロジカル」には、オクラホマあたりなら油井、鉄道駅などの影響も大か。”という書き込みで思い出したのですが、内モンゴルにもいくつか油田があるのですね。以前ジープで草原地帯を走っていたとき、草原の真ん中に突如大きな町が現れてびっくりしたことがあります。そこは石油基地でした。手持ちの地図には町の存在が記されていなかったので、比較的新しくできた町だったのでしょうけど、町の中に入っていくと漢族しかいなかったのに再度びっくりしました。周りの草原ではモンゴル人が羊を追っているのどかな風景が続いているというのに。なんだか古の植民都市を見たような気がしました。「新疆」にも有名な石油基地がいくつもありますけど、まあ似たようなものですね。

“収奪源”といえば、かなり前に次のような話を聞いたことがあります。改革開放以降の中国では旧中国のあらゆる悪習慣が復活したのですが、人買いもその一つで、雲南――ここも少数民族が多く、また資源がそれほどないことから貧しいのですが――の少数民族の村にバイヤーが訪れて若い女性を一人いくらで買うのだそうです。そうしていくつかの村を回って集めた何十人かの女性を連れて、今度は中国関内の漢族の農村へと行き、女性を一人いくらで売るのだそうです。なぜなら漢族の農村もすでに女性は近くの町や遠くの大都市へ出稼ぎに行っており、農村では嫁不足になっているからということでした。まあ今日では雲南もそれなりに経済発展しており、今でもこういうことが続いているかどうかはわからないのですが。今では雲南の男たちは商売をして小金を貯めると“元”経済圏となっている北部ミャンマーに行って愛人を作ったりしているらしいですし(苦笑)。中国国内に限らず「労働力再生産構造」におけるこの種の“収奪”(友人によると先日のシンポジウムでも中国朝鮮族の学者の報告によると朝鮮族の結婚適齢期の女性の三人に一人が韓国に嫁に行くほどにまでなっており、中国朝鮮族の存亡に大変危機感を募らせていたそうです)や「出稼ぎ労働」における「セックス・ワーク」の比率の高さは、見せ掛け上の「資本主義的合法性」とは関係なく現在の資本主義の構造変化の問題として考えるべきものでしょう。

“レーニンが指摘するように鉄道建設を支えるのは鉄鋼生産ですが、中国は今や粗鋼生産量で十年連続世界一の“鉄鋼大国”に踊り出ました。そしてその鉄鋼業が日・欧・中を股にかけたグローバルな展開をとげているところ、そしてその先端部分は鉄道よりも自動車生産に主導されているところ、レーニンが観察した時代から大きな変貌を遂げていることにも注目したく思います。それは「帝国主義」という概念そのもののリフレッシュを要求しておりましょう。”(鬼薔薇さん)

>臨夏さま

>わたしは、そういう事がわかる、最後の世代ではないでしょうか??
最近の子供は、日本=大国というのがあたりまえでしょう。

私もそういう感じがします。おそらくバブルのころあたりがひとつの分かれ目になっているのではないでしょうか。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とか、「ハリウッド買収」とか「エンパイア・ステート・ビル買収」とか騒がれていた時代でしたものね。今の20代の人たちは日本人が「アメリカに憧れていた」時代があったことすら知らないのかもしれませんね。

代わりに今の日本の若い人に感じるのは「もう日本で十分」という、いくらか自閉した傾向と、それとはまったく逆に「もう日本はダメだ、<外部>に出よう」という傾向ですね。後者の傾向は男性よりむしろ女性に多いような気もします。今日本人の国際結婚する割合が結婚する男女全体の二十分の一になっているという話を聞きましたが、それもそういう傾向を幾分かは反映しているのかも知れません。

さて、そろそろ私も報告に戻りましょうか(笑)。何か「階級」「民族」関係で言及する必要があれば必要に応じてその場その場で補足していきましょう。
 
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「Every Man an Immigrant」

 投稿者:蘇丹・加里耶夫  投稿日:2005年11月15日(火)21時45分55秒
編集済
  >「レッドネックス」、「ミスター・プレジデント」(Have pity on the working men)、「ルイジアナ 1927」(大洪水)、「キングフィッシュ」(文字どおりロングを歌った)などのランディ作品とともに、Huey.P.Long 作(とされてる)三〇年代のロングのキャンペーン・ソング「Everyman A King」をカバーしてます。(ストリングさん)

このキャンペーン・ソングである「Everyman A King」はロングがSOW運動を始めるきっかけとなった演説のタイトルから来ているらしいですよ。

“しかしそのような一連の演説にあって、二月二十三日の演説は画期的であった。逆にいうと、この演説を核にして、一連の同語反復的演説が無類の力をもって人びとをつき動かしたのである。
 “Every Man a King”と題されたこの演説は、SOW協会の設立を呼びかけた。画期的だったのはこの一点である。これはまったく新しい展開だった。
 設立はきわめて簡単なことだ。ワシントンD・C、上院議員ヒューイ・ロングあてに、会の存在と役員の名前とメンバーの人数を知らせてくれればいい。そうロングは説明した。会の参加者は友人を誘ってほしい。協会同士が連絡をとりあってくれ。そうすればこの私の訴えはより大きな運動になるだろう。そのためには政策の要旨をまとめた回書があれば便利であろう。ヒューイ・ロングに連絡をとってくれれば、百部で六十セント、千部なら四ドルで郵送しよう。みんなはそれを好きなだけ配ってくれれば、うれしく思う。ロングはこう訴えた。
 反響は凄まじかった。かれのいうとおり、「富の分散をめざす努力は新しい局面に突入した」。すぐに何万通もの好意的手紙がロングのワシントン事務所に舞い込み、その数はさらに膨れ上がった。アラスカからも、ハワイからも、なんとフィリピンからもそれは届き、これほどの郵便物を毎日受け取る上院議員はほかにはひとりもいなかった。ロングはそうしたすべての手紙に返事をだした。もちろん秘書とタイピストを使ってである。その要員は、ピークには五十人に迫り、交替制で対応したという。
 たちまちアメリカ中で協会が設立された。百人から二百人くらいのメンバーで会は構成され、彼らは個人宅で、教会で、公民館で、ホテルのホールで会合を開いた。人びとはロングの新聞『アメリカン・プログレス』の定期購読者になり、そこに掲載されるロングの論文に読みふけった。集まるたびに、彼らはSOW計画の実現方法について議論した。そして新会員を募集し、パレードを催し、すれちがう人びとにSOWを呼びかけた。こうして運動にのめりこむ会員たちは、富の再分配に最初にあずかるのは自分たちだと信じ込んだのである。
 会は急速に成長した。一ヶ月に二十万人が新たに参加した。平均して一週間に六千通の手紙がとどき、なかには十四万通の週もあったという。ロングの事務所は、三五年の四月までに二万七千四百三十一の協会が設立され、じつに七百六十八万二千七百六十八人の人びとが登録していると報告した。
 たしかに、いったい何人の人間がこの運動に真剣に参加してしたのか、正確なところはわからない。資料を請求した人のなかには、好奇心からそうしただけの者も、かなりいただろうからである。しかしその点を割り引いたとしても、現在アメリカ最大の圧力団体である全米ライフル協会の規模が三百五十万人といわれ、その数でもって連邦議会の下院議員を落選させることができるのだから、この数字がいかに恐ろしいものか、想像がつくだろう。しかも当時のアメリカの人口は、今の約半分だったのである。”(『アメリカン・ファシズム ロングとローズヴェルト』 三宅昭良著 講談社選書メチエ 1997 p.108−110)

おそらくこのキャンペーン・ソングの歌詞は演説の一部分を拾ったものか、演説のエッセンスを短くまとめたものなのでしょうね。一時的なものであったとはいえ、これだけ全米をゆるがせたものであったからこそ、その後30−40年経っても東部のエスタブリッシュを憎む南部の人々の間には「ロング神話」として残っていたのでしょう。

一方、ロングらを打ち破って大衆の「国民」としての統合を推し進める役割を結果的に担った「ニューディール」は、その自らの政策の結果として60年代の新たな「叛乱」を生み出すことになるのです。

“南部プランテーションの変質と黒人の移住という点での構造的変化は、一九三〇年代の世界大不況の衝撃で始まった。綿花は深刻な過剰生産となり、価格は下落し、南部の困窮は目を覆うものとなった。そしてフランクリン・ローズヴェルト大統領のニューディール政策が、南部の黒人の運命に重大な影響を及ぼしたのだ。確かにニューディールは労働者や農民など、アメリカ民衆に大きな恩恵を与えた。黒人もその恩恵にあずかった。しかし、驚くべきことに、ニューディールの政策こそは、黒人小作農を土地から追い出す過程の、つまりシェアクロッピング制度(引用註:一種の分益小作制で、プランターが住居や耕地、農具、家畜などを提供し、シェアクロッパーが家族労働力で耕作を引き受け、収穫の半分ほどをプランターに払う仕組み。クロッパーの生活は苦しく、その多くが収穫前の作物までも抵当に入れて食いつなぐという借金地獄に陥り、事実上土地に緊縛されていた)解体への転換点となったのである。
 ニューディールの農業政策として有名なAAA(農業調整法)は、連邦政府が農民に補償金を与えて作付け制限をさせ、農産物価格の上昇を図ろうとするものだった。ところが南部耕作の場合、作付け制限を行うのは土地所有者としてのプランターだった。旧来の作付け実績の二五〜五〇%にもおよぶ作付け制限の実施で、大量の労働力が不要となった時、プランターは補償金を利用して機械化を図り、小作制度から賃労働を使用する大経営への転換を始め、多くの黒人小作農が容赦なく土地から追い立てられたのである。
 一九三〇年代にはトラクターの導入はまだ散発的で、手労働が優勢だったが、第二次世界大戦による労働力不足と相まって、一九四〇年以降、トラクターはかつてない速度で普及し始めた。しかし綿摘みが機械化されない段階では、まだ大量の手労働が必要であり、そのために小作人の存在が必要だった。ところが自動摘取り機械(コットンピッカー)が一九四七年から実用化されると、綿作の全面的機械化が始まった。こうして一九五〇〜六〇年代にはシェアクロッピング制度に基づくプランテーションは全面的に崩壊し、機械制大農場がそれに代わったのである。
 これと並行して様々な「農業革命」が進行し、膨大な黒人人口が南部農村から追い出された。こうして、安価で従順な労働力を獲得するための人種差別によって封じ込められた労働市場の必要性は減った。黒人の大量の南部離れ、公民権運動の大展開の背後には、従属的シェアクロッピング制の解体という経済構造上の大変化が存在したのである。”(『「民族」で読むアメリカ』 野村達朗著 講談社現代新書 1992 p.155−157)

ここでわれわれは以前の中国でその独特の戸籍制度によって農民が村を離れられなかったこと、そして市場経済化の波がその制度を事実上打ち壊して大規模な「盲流」「民工潮」を生み出したことを想起してもよいでしょう。また中国に限らず農産物輸出入の自由化を軸のひとつともする今日の「グローバリゼーション」が低開発諸国の農村共同体の自足性を破壊し、世界中のあらゆる都市を様々な「民族」からなる「出稼ぎ労働者」で満ち溢れさせていることは、いったいいかなる「叛乱」を生み出す可能性を持っているのでしょうか。
 
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とりあえず、レスです。

 投稿者:臨夏  投稿日:2005年11月15日(火)00時43分56秒
編集済
  また、土日月と、30時間以上寝てました。おかげで生産や交通のその他で支障を来しております(苦笑
レスも遅れてすみませんです。

鬼薔薇さま>
>日本と中国。
どうも、また話が逸れてしもたようで(^^;
このごろ、談話室は興味深いことばかりで、テキストに移して、少しづつ読んでおりますが、
読み終えんうちにでも、近々、「中米問題」、顔出ししようか思てます。

以下、少しだけ、ここでのレスも書かせてください。

ニム・ウェールズは、そう、『アリランの歌』は、たいへん面白く読みました。
「面白い」というと、「不謹慎」な気もしますが、文章うまいし、ほんまに「おもろかった」ですねえ(笑

>ヘレンが著した回想記『中国に賭けた青春』(春名・入江訳、岩波書店)

>『中国の歌声』『中国は抵抗する』のアグネス・スメドレーでしょう。スメドレーの自伝『女ひとり大地を行く』

これらは読んでおりません。
この辺がまだまだ弱いですねえ、、ここいら、なんでもかんでも近いうちに読んでまいたいです。

スメドレーは、台湾で昔言われてたという、「殺猪抜毛」の朱(猪は、ほんまはこの字ではありませんで、
漢語で豚のことです。豚と朱さんが、発音北京語で、共に zhu1 なもんで、こういう悪口も成立するのです)
徳〜、朱徳将軍の伝記『大いなる道』を読みました。
これは、岩波文庫で、上巻だけ中学生かそこらのとき買うてて、読む時探したら下巻がなく、
岩波文庫化以前の古本で補うたりしました。本は、あるうちに買うとかんといかんですね。
いまでも、読めるんでしょうか?

このまえ研究で台湾に来てた、北京大博士課程の方は、
わたしが部屋に読んで、その辺の話もしたら、「共産党員」です、と話してくれましたが、
『偉大なる道』は読んではらへんみたいでした(笑

とはいえ、わたしは、何故ジョン・リードが、スメドレーの方が似つかわしく、ウェールズがそうでないのか、
その価値区分がようわかりませんので、よければご説明いただけるでしょうか?(^^; すみません。

>移民
そうですね、レーニン本文もまた見ます。
移民なら、「君が代丸」とか、絶好の話題かもですねw



蘇丹・加里耶夫さま>
コメントありがとうございます(^^

>「西洋コンプレックス」「近代コンプレックス」の発露として、感情の上で「親米」であったり「反米」であったりするという「戦後」を過ごしてきたことになるのだろう

蘇丹・加里耶夫様に啓発されて、自分の中で、「アメリカ論」が始まったような気がします。
上記引用は、わたしにも当てはまります(^^;
わたしは、そういう事がわかる、最後の世代ではないでしょうか??
最近の子供は、日本=大国というのがあたりまえでしょう。

でもわたしは、自分が子供やから、「一般の時流」からはずれてたんかもわかりませんけど、
子供ながらに、日本=貧乏、アメリカ=全ての師匠、、とか思てましたよ。
その後、「反帝反スタ」という錦の御旗を手に入れて(万能ツールでしたね、「マルクス主義」(笑))、
アメリカが何もんなんかを問わんと、いっぺんに反米に転回して、ずいぶん、思想上ラクしました。
まさに、反米になることで、自分の中のコンプレックスを、一挙に「片付けて」しもうたわけです(^^;

やはり、対象は、「他者」と見据えて、初めて理解のとっかかりになるのでしょうか。
わたしは、アメリカを、「よう知っとるよ〜」てな感じで、ちゃんと対象化できんままに、
ここまで来たようです。

ただし、対象を「他者」として見るのは、苦闘もするが、ずいぶん楽しい知的作業でもあり、
(やる事はいっぱいあるけど)、自分の「対象」に、アメさんも入れてみよかな、というた所です。
(*それより前、他者性をつよく感じたのは、「朝鮮」と「共産主義」と「イスラーム」でした。
彼らと付き合うのは楽しい事です。)
 

鉄道建設と植民地・縁辺地域の編入

 投稿者:鬼薔薇  投稿日:2005年11月14日(月)22時54分14秒
編集済
  >「新疆ウイグル自治区」のカシュガルは鉄道が開通してはや数年になりましたが、開通してからいくばくもたたない時にカシュガルを訪れたことがあります。80年代は人口のほとんどがウイグル人の町であったカシュガルは、街路を歩いていても漢族の姿が多く、町並みも中央アジア風から急速に中国関内の普通の都市の様子へと「変貌」を遂げていました。今現在ではもっと「変貌」しているはずです。遅かれ早かれラサを待っているのはこのような運命でしょう。(蘇丹・加里耶夫さん)

「鉄道」は「帝国主義」理解に必須アイテムのひとつですね。テキスト本文から関係する言及をいくつか拾ってみましょう(訳文は国民文庫版によります)。

《鉄道の建設は単純な、自然的な、民主的な、文化的な、文明的な事業のように見える。資本主義的奴隷制を美化するために金をもらっているブルジョア教授たちの目には、またはブルジョア的俗物の目には、そう見える。だが実際には、これらの事業を数千の網の目によって生産手段一般の私的所有と結びつけている資本主義の糸は、鉄道の建設を、(植民地ならびに半植民地の)*十億の*人々、すなわち従属諸国の人口の半分以上と、「文明」諸国における資本の賃金奴隷とを、圧迫する道具に転化させたのである》(仏独語版序文、岩p.17/国p.12)。

《雑誌『バンク』の発行者アルフレッド・ランスブルグは1909年に『ビザンティン主義の経済的意義』という論文を書いたが、これは、一つには、ヴィルヘルム二世のパレスティナ旅行と、「この旅行の直接の結果であるバグダード鉄道の建設、すなわち、われわれのすべての政治的失策をあわせたよりももっと『包囲』について責任のある、のろうべき『ドイツ企業家精神の大事業』」について述べている。――(包囲というのは、ドイツを孤立させ、帝国主義的な反ドイツ同盟の環でドイツを包囲しようとつとめた、エドワード七世の政策のことである)》(第3章、岩p.96-7/国p.76)。

《世界経済全体における資本主義と金融資本との成長の速度の相違についてのきわめて精密な資料を、われわれは鉄道統計のうちに見出す。……〔第18表〕/したがって、鉄道の発展は、アジアとアメリカの植民地と独立国(および半独立国)でもっとも急速にすすんだわけである。周知のように、四つか五つの最大の資本主義国家の金融資本がこの地域で全面的に君臨し、支配している。アジアとアメリカの植民地とその他の国々における20万キロメートルの新しい鉄道は、つまり、400億マルク以上の新しい資本投下が特に有利な条件でおこなわれ、収益がとくに保障され、製綱所その他に利益の多い注文がなされる、その他等々のことを意味する》(第7章、岩p.157-8/国p.126)。

《イギリスはその植民地のおかげで「その」鉄道網を10万キロメートル増加させたが、これはドイツの増加の四倍にあたる。ところが周知のように、この期間におけるドイツの生産力の発展は、とくに石炭業と製鉄業の発展は、フランスやロシアはもちろんのこと、イギリスとくらべてさえ、比較にならないくらい急速であった。1892年には、銑鉄の生産高はイギリスの680万トンにたいしてドイツは490万トンであったが、1911年にはもはや900万トンであって、イギリスより圧倒的に優位にある!》(同、岩p.159-160/国p.127-8)。

見られるとおりこれらは海外植民地問題との関連の叙述で、中国の国内問題には無縁ともみえますが、実は疆境ウィグルにせよチベットにせよ、あるいは内モンゴルにせよ「国内/国外」の区分けそれ自体が自明とは言えぬ“周辺”地帯ですよね。“自明とは言えぬ”などというと「神聖な領土」論の中国当局者は目を剥くでしょうけど(苦笑)。

中国経済の“驚異的発展”を扱ったテレビ・ドキュメンタリーで、30代とおぼしき女性の経営者がりゅうとした身なりでインタビューに応じ、「わが国には低廉な労働力が豊富にある。これが強みだ」と平然と語っていたのが印象的でした。この「低廉な労働力」=国内低賃金層の存在と周辺地域の問題とはもちろん同じでないにしても、今の中国は国内に「植民地(収奪源)」を抱えて成長を遂げている姿を思わせます。そしてこれ、中西部とか南部とか「国境の南」の隣接メキシコとかを考えますと、海外植民地が少なかったアメリカ合衆国に似ておりませんでしょうか。

レーニンが指摘するように鉄道建設を支えるのは鉄鋼生産ですが、中国は今や粗鋼生産量で十年連続世界一の“鉄鋼大国”に踊り出ました。そしてその鉄鋼業が日・欧・中を股にかけたグローバルな展開をとげているところ、そしてその先端部分は鉄道よりも自動車生産に主導されているところ、レーニンが観察した時代から大きな変貌を遂げていることにも注目したく思います。それは「帝国主義」という概念そのもののリフレッシュを要求しておりましょう。
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051108-00000000-san-int
 http://www0.nsc.co.jp/monthly/pdf/2005_8_151.pdf

日本(人)の「アメリカ」認識と「中国」認識との関係というのも複雑な様相を呈しますが、とりあえず。

追:
>昨日こんな催しがあったそうです。

覗いてみました>蘇丹・加里耶夫さま
その記録、わたしもぜひ読みたい(^^)。
このサイト、ここのリンク・リストに加えましょうね。
 
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まとめてレス

 投稿者:蘇丹・加里耶夫  投稿日:2005年11月14日(月)06時07分24秒
編集済
  >臨夏さま

>左翼にはアメリカが見えていない、、旨(臨夏要約)のコメントがありましたが、
アメリカには、日本人は強く憧れている/いた割には、よく見えていないのでしょうか。
日本人にとって、アメリカとは何か、、この地盤的な問題が、まだ熟考されてないようですね。

はい。私が前に“私はここに左翼云々を超えて戦後日本のアポリアの一つが露呈していると考えていますが”と書いたように、この問題は左翼「だけ」の問題というよりは左翼を含めた「日本人」の問題ではないかと思っているのですね。たとえば臨夏さんが書いたように“アメリカには、日本人は強く憧れている/いた割には、よく見えていないのでしょうか。”、私も近代以降の日本人は「アメリカ」に強く憧れていた面があると思うのですが、ごく単純な道理としてもし「強く憧れていた」とすれば、「痘痕もえくぼ」で、逆によくその実態が見えなかったという可能性がありますよね。実際、日本のアメリカ研究に携わっている人から「日本のアメリカ研究はアメリカに関する日常的情報があふれている割には学術的には非常に弱い/遅れている」という話を聞いたことがあるのですが、このことは個別の学会の問題というよりは私は日本人のアメリカに対する感情のある種の側面を表しているような気がするのです。アメリカに対する感情の好悪はものすごくあるが、冷静な分析は少ない、ということは、アメリカの内情を見ているというより、「アメリカ的なるもの」に惹かれたり反発しているということなのではないでしょうか。

私がここで思い出すのは真珠湾攻撃が始まったとき、それまで日中戦争に反対していた(もしくは違和感を持っていた)日本の知識人たちが衝撃を受けて「聖戦」支持にのめりこんで行った、という事実ですね。そしてそこから「近代の超克」ということが切迫感を持って言われだすのですが、それを私は転向左翼のイデオロギー的自己合理化、という面に着目するより、なぜアメリカ(そして英仏)との戦争ということが、「近代の超克」というところに帰着するのかを考えると、むしろ戦前日本人が心の底に根強く持っていた「西洋コンプレックス」「近代コンプレックス」の“癒し”という側面のほうがよく強く感じられるのですね。日本人、特にその知識人が激しく「西洋コンプレックス」「近代コンプレックス」に苛まれていたからこそ、その感情の爆発が「真珠湾攻撃」への衝撃という形であらわれたのではないか、と。

そして日本は「日本的原理」「東洋的原理」を持ち出して連合国に対抗するのですが、結果としては負けてしまい、否応なく「アメリカ的なもの」を受け入れることになるわけです。ということは先に感情の爆発を見た「西洋コンプレックス」「近代コンプレックス」は昇華されることなく、むしろ敗戦の結果より強化された形でそれを抱えたまま戦後を推移したということになるのではないでしょうか。戦前の軍国主義教師たちが「一夜にして」民主主義の旗手に葛藤なく移り変わったということに象徴される事態は、一回否定したはずの「西洋的なるもの」「近代的なるもの」を“現実の否定できない事実として”再受容したということを意味します。英仏をはじめとしたヨーロッパ帝国主義国家群が第二次世界大戦を最後に没落を遂げ、アメリカが最強の資本主義国として現れたことはとりもなおさずこの「西洋的なるもの」「近代的なるもの」を日本を撃破したという事実を含めて「アメリカ的なるもの」が代表することになったでしょう。

そのことは存在するアメリカとは別に日本人が「アメリカ的なるもの」を自己の「西洋コンプレックス」「近代コンプレックス」の発露として価値判断し、善悪、そして好き嫌いを決めていることへとつながります。逆にいえばそれは「アメリカ的なるもの」が実態としてのアメリカを判断させることへの阻害要因となっているということでしょう。ゆえに、臨夏さんだけではなく誰もが常識的に考える“アメリカには、日本人は強く憧れている/いた割には、よく見えていないのでしょうか。”ということはまさに“アメリカには、日本人は強く憧れている/いた*からこそ*、よく見えていない”という結果になっていると私は判断するわけです。

つまり日本人はアメリカの内情がどうであるかにかかわらず自らの「西洋コンプレックス」「近代コンプレックス」の発露として、感情の上で「親米」であったり「反米」であったりするという「戦後」を過ごしてきたことになるのだろう――と思います。それを典型的にあらわすのが、「名誉白人」として扱われることに倒錯した喜びを感じる心情だったのではないでしょうか。もしくは左翼であっても「欧米スタンダード」が唯一の基準と発想してしまうような。

>最近、黄砂のニュースが多いな、思てたら、これは中共による、モンゴル支配のモロ結果やったわけですか!
目から鱗です。

もちろん、全地球的には「地球温暖化」とか「砂漠化」の問題があるので、このことだけが、という風には言えないのですが、中国の場合近年黄砂の問題が特に悪化していることは、やはり内モンゴル草原の急激な砂漠化と合わせて考えるべきで、これは明らかに天災以外の人災的要素が大きいと思うのですね。しかも、中共のモンゴル支配はすでに50年以上の時を経ているわけですが、この問題がここ十数年激しくなっているということは、改革開放政策が、つまりは市場経済化がこの問題を激進させているということなのでしょう。それは『怒りの葡萄』紹介文の

“19世紀から20世紀にかけて、多くのフロンティア・スピリットに溢れた開拓農民が草原地帯に入植し、開墾して耕作を開始したのだった。このような努力は、一時的にはアメリカの農業生産力を高め、特に第一次世界大戦中、アメリカはヨーロッパの穀物倉庫として多大の利益を挙げた。しかし、この地域の開墾は、生態学的にみれば、安定した状態にあった極相の破壊、あるいは生態系の破壊を意味していた。”

という部分と対応していると思うのですね。

>そういうたら、ラサまでの鉄道も完成したそうです。
15年まえのラサは、まだジョカンの周りなど、純チベット風でした。。コルラしました(^^;

「新疆ウイグル自治区」のカシュガルは鉄道が開通してはや数年になりましたが、開通してからいくばくもたたない時にカシュガルを訪れたことがあります。80年代は人口のほとんどがウイグル人の町であったカシュガルは、街路を歩いていても漢族の姿が多く、町並みも中央アジア風から急速に中国関内の普通の都市の様子へと「変貌」を遂げていました。今現在ではもっと「変貌」しているはずです。遅かれ早かれラサを待っているのはこのような運命でしょう。

>鬼薔薇さま

>スターリン主義的〜第二インター的な教義・教条は、「一民族・一国家」イデオロギーが染み付いた日本社会では特に受け入れやすく固着しやすいものであったかと存じます。それはまた、「労働者階級本体論」というかたちで、イデオロギーにおける「労働者」物神化が実体としてある「労働組合」(代表的には総評・民同左派)に「階級」を読み込んでしまう傾向を容易に産み出したのかもわかりません。その点では、学生中心だった新左翼よりも日本共産党の労働者組織のほうに実践的な経験が蓄積されていたのではないかと思うのですが、60年代以後の共産党は、そうした要素を自らないがしろにして「党勢拡大」へ走っていったような気がいたします。そこでも「朝鮮戦争」時期の経験がトラウマのように作用していたのではないかと。

はい。この点で思うのは、在日朝鮮人や在日台湾人は戦後「日本人ではなくなった」ということで、公務員になる権利を失い、また国籍条項との兼ね合いで以前はほとんど大企業に就職できなかった、という事実ですね。つまり民同・総評にはもともと彼らの占める位置はなかったわけです。彼ら、特に在日朝鮮人が日本共産党に所属して闘っていたときも、事実上ほとんどの在日朝鮮人が半失業の状態だったはずです。ゆえに彼らは闇屋や屑鉄拾いから始め、のちには自分で企業を起こしていかざるを得ず、それでも日本の銀行が金を貸さない当時では基幹産業へと食い込めなかった彼らは飲食店やパチンコ屋・風俗業など、元手がかからず始められる、かつ既存の産業の透き間であった第三次産業へと進出したのですね。後の高度経済成長期にはこの分野も急成長を遂げて、彼らの中から成功者もちらほら出てくるのですが。

日本の新左翼が日共との対抗上もあって、依拠した民同・総評は日本の民族・階級構成とは別にそもそもが「一国=一民族」的な存在へと「純化」されていたからこそ、「労働者階級本体論」を軸に組織論を組み立てていった新左翼もこの問題に「鈍感」とならざるを得なかったという「条件」も存在するでしょう。アメリカ的なアナロジーで言えば民同・総評は「左バネ」で左傾化しようが革命化しようが「AFL」でしかなかった、とも言えるかと思います。また新左翼の場合は鬼薔薇さんがおっしゃるとおり、学生中心であったので実際問題から始めるというより、一回抽象的なレベルでレーニン主義を再構成し、革命論を打ち出したためこの問題を看過したという面もあるかと思います。

日本共産党の場合は、50年以降の路線が中国共産党風に味付けされたスターリン主義的「民族」理論であったため、国内の階級構成の問題として民族問題を把握するというより、民族を並列的なものと捉える(ここにも「一国=一民族」観が反映していますが)傾向が強かったかと思います。特に50年代半ばの在日中国人・在日朝鮮人の集団離党以降は、在日朝鮮人・在日中国人を「在外公民」として把握し、日本・中国・朝鮮の国家的友好路線の延長線上で「友好団体」として交流するという形になり(もちろんそれが国際総路線だったわけですが)、やはり独自の「民族」論を打ち出すような「条件」が存在しなかった、と“公式的”には言えますね。

なぜ“公式的”と書いたかというと、民戦の末期に内部で先覚派(のちの総聯主流派)と後覚派(日共民対部)の論争があり、総聯結成後もこの問題がこじれて先覚派、それを推す共和国と後覚派の対立となり、日本共産党幹部の助けを得て共和国−先覚派の路線が確定するからで、下部党員は知らないと思いますが、日共の幹部レベルではこの問題がすんなりとはいかなかったことを知っているはずだからです。

横レスですが

>追:「間島パルチと金日成」秘密計画(笑)も忘れておりませんよ(^^)

昨日こんな催しがあったそうです。

http://www.searchnavi.com/~hp/chosenzoku/bbs/051015.htm

私は用事があり行けなかったのですが、行った友人は「とても面白かった」と言っていました。このシンポジウムを本にして来年出す予定があるそうなので、出版されたら私も目を通してみたいと思います。
 
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ジャニー・ギター>ストリングさま

 投稿者:鬼薔薇  投稿日:2005年11月13日(日)21時42分0秒
  >「大砂塵」のペギーリーの唄って「ジャニ・ギター」(Johnny Guitar)でしたよね。

はい(^^)。作曲はビクター・ヤング、作詞はペギー・リー自身。
レッドパージの嵐が吹きすさんだ後のハリウッド映画ですが、唄は素晴らしかったです。
 
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「誰もが王様」-ヒューイ・P・ロング

 投稿者:ストリング  投稿日:2005年11月13日(日)21時34分17秒
  こんにちは。

蘇丹・加里耶夫さんの

>>
そしてこの「ポピュリズム」を30年代に擬似ファシズムの手法まで「高めて」ローズヴェルトの「ニューディール」に対抗した男が、「ルイジアナの独裁者」“キングフィッシュ”ヒューイ・ロング(1893−1935)でした。
>>

またまた六〇−七〇年代ロック・ポップス関連で少し。

一九七四年、ランディ・ニューマンにしては良く売れた『Good Old Boys』は「米国南部」を扱ったコンセプト・アルバム。ランディ・ニューマンの一貫した手法、「肯定」と「否定」や、「マジ」と「逆説」との、通常のわかりやすい安定した境目(出来のわるい「社会派」コントや「風刺」マンガがそれに安住してるような)じたいを「まな板」に乗せるやり方で、両義的で刺激的な「米国南部への音楽旅行」になってました。
「レッドネックス」、「ミスター・プレジデント」(Have pity on the working men)、「ルイジアナ 1927」(大洪水)、「キングフィッシュ」(文字どおりロングを歌った)などのランディ作品とともに、Huey.P.Long 作(とされてる)三〇年代のロングのキャンペーン・ソング「Everyman A King」をカバーしてます。

Why weep or slumber America
Land of brave and true
With castles and clothing and food for all
All belongs to you

Ev'ry man A King, Ev'ry man A King
For you can be a millionaire
If there's something belonging to others
There's enough for all people to share

Ev'ry neighbor a friend
And ev'ry man A King

どんな方向からの「Everyman」の投網にたいしても、自分はカウントされてない、「知るか」の状態から、突然、「誰でも」の中に自分も含まれてる、自分のことなんだと思える、思えてしまうようになる瞬間があったのだろう。そのダイナミズム。

「自分たちが社会の動向から遠ざけられていること、自分たちがブルジョワ社会の不断の変化に慢性的にとりのこされているという意識、自分たちに関係なく町も人間関係も勝手に変わってゆきやがるという不満、すなわちそうした大衆の「おくれ」「後進性」「保守性」そのものが、直接行動となって激発するのである」(平岡正明 『ヒトラー学入門』)


その他。

「エコロジカル」には、オクラホマあたりなら油井、鉄道駅などの影響も大か。
スタインベックは詳しくないですが、ウディの場合は母親が先住クリーク人(Creek Nation)だったり、さらに錯綜してますね。
そういえば、それまでのミシッシッピ・デルタ・ブルースを強力に都市化させたロバート・ジョンソンが、大量に録音をおこなったのも三六、三七年頃です(マルクス、ロバート・ジョンソン、チャーリー・パーカー、ド阿呆・春団治(は良く知らないが)と、「生活破綻者」でも良い仕事は残せる、、場合もある)。

もう少し時間をさかのぼると、主にカナダ人のたたき上げロック・バンド、「ザ・バンド」が一九六九年に発表した二枚目『The Band』は、いわば「歴史物」、「時代劇」仕立てのトータル・アルバム。南部の下層貧困白人バージル・ケインの目から南北戦争の「リッチモンド陥落」を歌った「The night they drove old dixie down」から、三〇年代極貧農民を描いた「King Harvest Has surely come」まで、境界線からの、そして低い視線からの、もうひとつの米国史でもありました。

雑誌連載後二度ほど単行本化されたが、今は絶版だろう、グリル・マーカス著・三井徹訳『ミステリー・トレイン』がこのあたり詳しいです(扱われてる音に少しでも興味が持てなければ、読み通すのはキツイでしょうけど)。


鬼薔薇さんの、

>>
「大砂塵」――ペギー・リーの唄
>>

「大砂塵」のペギーリーの唄って「ジャニ・ギター」(Johnny Guitar)でしたよね。

それでは。
 
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ご案内:「中国とアメリカ」話題は[談話室]で>臨夏さま

 投稿者:鬼薔薇  投稿日:2005年11月12日(土)23時40分55秒
  >レーニンとアメリカの関係は、興味深く読みました。

>するとどうしても、「中国とアメリカ」のことを考えてしまいます。
ロシアにジョン・リードがおったとすれば、
中国では、エドガー・スノウでしょうか(笑
毛沢東も、個人的レベルにおいても、スノウが好きやったみたいですし。

この話題は、今[談話室]のほうでそろりそろりと始まりかけておりますので、あちらへお移りくださいませ。あちら、「右翼」「民主主義」系の話題が前に出てきたため読みとりにくいかもわかりませんが、今年7月に「アフガン」板で上のご発言と共通することを(「台湾」がらみで)書いたところ猛獣さんから異論が出され、その時のやりとりを受けた再論・継続を『中国白書』がらみでやりかけております。同『白書』公刊時(1949年)の毛沢東の見解は猛獣文士さんご紹介で、わたし初めて読みました。それに関わるコメントはこれからですけど。

エドガー・スノウは奥さんヘレンといっしょに中国へ渡り、二人それぞれ取材しておりますが、ただの若いジャーナリストだったわけではなく、毛沢東もそれを承知でインタビューに応じていた、それは中国共産党からアメリカ政府へのメッセージであったとわたし考えております。猛獣さんはこの考えに否定的なのですけど、これは後にヘレンが著した回想記『中国に賭けた青春』(春名・入江訳、岩波書店)からもうかがえるところかと。ご関心でしたら、先ずは「アフガン」板の過去ログで、7月13〜18日の鬼薔薇・まこと・猛獣文士の関連発言をご覧くださいませ。「毛−スノウ」関係の評価のちがいをお読み取りいただけましょう。

なお、ヘレンの筆名は「ニム・ウェールズ」。朝鮮人革命家・金山[キム・サン]を扱った『アリランの歌』で著名ですからご存知ですよね?

ロシア革命のジョン・リードに対応する中国革命でのアメリカ人といえば、それはスノウよりも『中国の歌声』『中国は抵抗する』のアグネス・スメドレーでしょう。スメドレーの自伝『女ひとり大地を行く』は、戦前「白川次郎」訳で日本に紹介されました。この「白川次郎」が尾崎秀実のペンネーム。ふたりとリヒァルト・ゾルゲは、上海・東京を結ぶ血盟の同志でございました。同訳書、戦後は角川文庫が復刊したのですが、代替わりになって廃刊ですね。残念(^^; ま、あの春樹さんには価値がわからないのでしょうけど(苦笑)。

>どうも、ログを読んではいるのですが、皆さんの圧倒的な書き込みのまえに、言うべく言葉もなかなか見つかりません。

ログの発展話題だけでなく、『帝国主義論』のテキスト本文をどうぞ。「民族・移民」がらみの第8〜9章はあなたのご関心にも強く触れるはず、“言うべく言葉”も少なくないと思いますけど?

長欠児童に対する補習みたいな口調に思えたらごめんなさいね(笑)。
 
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「民族」と「階級」>蘇丹・加里耶夫さま

 投稿者:鬼薔薇  投稿日:2005年11月12日(土)23時39分25秒
  10日も経ってのコメント、ごめんなさい。m(..)m

>「移民」は階級問題であると同時に「民族」問題でもあると思うのですね。「帝国主義本国−植民地」であれ、「先進資本主義国−低開発国」であれ、「資本主義の世界性」に沿った形で、「移住労働者」も発生します。そして移民労働者の「階級」としての相貌(移住先での)と「民族」としての相貌(出身国・出身地域とのかかわり)が、「資本主義の世界性」の多層構造の労働現場における結果として表現されていると思うのです。
(RE:雑談:レーニンの「アメリカ」認識/続き>鬼薔薇さま  投稿者: 蘇丹・加里耶夫  投稿日:11月 3日(木)23時31分30秒 )

在日朝鮮人関連の本で、彼らの労働市場における位置を考えていたときの認識構図は、“「移民」は民族問題であると同時に「階級」問題でもある”というもので、上のご指摘でその逆転を指摘された思いがいたします。このたびの「移民」問題をめぐる一連のお書き込みで、これまでの観方の一面性を感じ取りつつあるところでございます。

>レーニンは「階級」を単層的なものとして把握していますけど、それはレーニンもやはりカウツキーから引き継いだ観のある「民族」をどう把握するかという問題が、地理的・実体的概念に引きずられているせいでもあると思うのですね。(カウツキー「民族」論の完全な公式化・教条化はスターリンの『マルクス主義と民族問題』ですが)もちろん時代的制約もあるでしょう。ただ、これもわれわれが第二インター流「一国=一民族」観、ないしはスターリン主義流の公式的「民族」観でレーニンを読んでしまっているせいでもあって、この辺はもう一回レーニンを「洗いなおす」必要があるとは思っています。

そうなのですね。
スターリン主義的〜第二インター的な教義・教条は、「一民族・一国家」イデオロギーが染み付いた日本社会では特に受け入れやすく固着しやすいものであったかと存じます。それはまた、「労働者階級本体論」というかたちで、イデオロギーにおける「労働者」物神化が実体としてある「労働組合」(代表的には総評・民同左派)に「階級」を読み込んでしまう傾向を容易に産み出したのかもわかりません。その点では、学生中心だった新左翼よりも日本共産党の労働者組織のほうに実践的な経験が蓄積されていたのではないかと思うのですが、60年代以後の共産党は、そうした要素を自らないがしろにして「党勢拡大」へ走っていったような気がいたします。そこでも「朝鮮戦争」時期の経験がトラウマのように作用していたのではないかと。

「階級」観を豊かにしておかぬと「民族」問題は扱いかねる、というか足をすくわれるアブナイ問題圏、それをクリアしないことには同じ轍を何度も踏むことになること、すでに過去40年の左翼運動史に織り込まれているところと存じます。

***

「民族」問題を『帝国主義論』との関連でどう扱うか、一昨年末から昨年1月にかけてすこし検討されました。その折蘇丹・加里耶夫さんから、

>「民族問題」の一般理論をレーニンの「民族自決論」の中に探ってみてもあまり意味はないと思うのですね。レーニンの「民族自決論」はやはり『帝国主義論』との関連で読むべきではないか、と。
(RE:第1段切りのご報告、ご苦労さまでした>鬼薔薇さま 投稿者:蘇丹・加里耶夫  投稿日: 1月21日(水)22時07分50秒 )

とのご指摘があり、また、個別章(たとえばこの第9章)で扱うより、テキストをひととおり読み終えた後で全体に横串を刺すかたちであらためてテーマ化するのがよさそうとの大まかな合意もあったと存じます。併せて、丸山敬一さんの関連論稿のご紹介とそれに対するコメントもいただきました。わたし、それらの論稿をまとめた単著『民族自決権の意義と限界』(有信堂)を購入はしたのですが、未だツンドク状態で(^^)ヾ

このかんの議論を踏まえますと、“「民族問題」の一般理論”もさることながら、『帝国主義論』との関連でも、「民族自決論」だけにとどまらぬ射程を確保できそうな気がしてまいりました。

進め方について、またご意見お寄せくださいませ>ALL

追:「間島パルチと金日成」秘密計画(笑)も忘れておりませんよ(^^)>臨夏さま
 
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わあ!そうやったんですか!

 投稿者:臨夏  投稿日:2005年11月12日(土)21時26分17秒
編集済
  蘇丹・加里耶夫さま>
>そして中国の市場経済化の波は今日の“グレート・ダスト・ストーム”を日本にまで「黄沙」として飛ばしているわけです。

最近、黄砂のニュースが多いな、思てたら、これは中共による、モンゴル支配のモロ結果やったわけですか!
目から鱗です。

そういうたら、ラサまでの鉄道も完成したそうです。
15年まえのラサは、まだジョカンの周りなど、純チベット風でした。。コルラしました(^^;
 

余談:「1930年代・国家と農民」

 投稿者:蘇丹・加里耶夫  投稿日:2005年11月12日(土)19時23分17秒
編集済
  先日、戦前日本映画の『大日向村』(豊田四郎監督 1940)を見る機会がありました。内容は長野県の大日向村という険しい山間部の山村で「半日村」とも呼ばれる畑の乏しいこの村で、しかも戸数が多いため村人たちは炭焼きと養蚕に従事しているのですが、折からの昭和恐慌で炭も生糸も価格が暴落、村人のほとんどが借金を抱えて村自体が立ち行かなくなっているところに、満洲開拓移民の話があり、満洲でなら猫の額のような土地ではなく誰もが自らの手では耕しきれないような土地が与えられるということで、村の指導者が「分村」を提唱して青年団の青年たちがこれに応え、村人たちも最初は不安であったものが、先遣隊を派遣するうちに満洲がいかに農民にとってよいところかわかり、かつ村人の大日向村での暮らしがほとんど立ち行かなくなって、最終的には村をあげて「分村」を進めるにいたる、その過程をドキュメンタリー風に描いたものでした。もちろん当時の国策映画ですから、当然そういう内容なのですが、ただ原作が農民作家の作品ということもあり、映画も下から――つまり農民の視点で描かれていて、当時の山村が置かれていた矛盾が比較的よく描かれていると思いました。

内容の簡単な紹介はこちらから:

http://www.dwell-info.com/bnt/t129b.html

まあ、観たときは「なんだかソヴェト映画の『大地』に話のプロットが似ているな」と思わず苦笑してしまったのですが(農業集団化を進めるコムソモールの青年たちと「移住」を進める村の青年団の青年たち、集団化を妨害するクラークと「移住」を妨害しようとする地主たち、「夢」としての集団化の結果のトラクターで機械化された農場と、満洲での大規模・機械化農業)、1930年代の昭和恐慌の下での農民の心情が「国家による救済」としての「満洲開拓移民」に傾いていくさまが、アメリカと日本で状況は違えど、ある程度共通する“相”を見せているのではないかという気がしました。もちろん『怒りの葡萄』にあるような民主主義的モチーフは『大日向村』にはまるでないですし、映画の性格上「国家による救済」というモチーフとまた「悲惨さ」が目立つ作品なのですが。

ただ、戦前長野県は有数の「左翼県」でもあり、それはこの農民たち(そして女工たち)の貧しさがこの「左翼性」を支えていたのかもしれないと思います。そして昭和初期の日本の左翼運動の瓦解は、規模は小さくてもアメリカにおける「ポピュリズム」運動の挫折というようなモチーフをも農民たちに与えたのかもしれません。いや、むしろこの時点を遡ること50年前の、秩父地方に決起した秩父困民党の軍隊が、長野県側に押し出した、その先こそこの地方でした。

“菊池貫平(引用註:秩父事件の指導者の一人で、大日向村のとなりの北相木村出身)は秩父に来たときから、信州をめざしていたと栄助(引用註:田代栄助、秩父困民党総理)は述べている。貫平は神ヶ原の夜、宿営の小学校で信州から出た一九歳の教員と酒をくみかわし、若い教員がこれからどの方向に進むのかとたずねたのにたいし、兵を二手にわけ、一手は万場、一手は信州へ、と答え、信州から米をとり寄せるともいった。
 かれは敗走と考えたのか、自分の作戦の遂行と信じたのか、貫平の心の動きをとらえることはできないとしても、ただ一つかれについて明らかな点は、どこへ行こうとも困民軍は結集でき、自給できるという楽観論につらぬかれていたことである。
 かれはこの段階になると、国会期限の短縮を口にした様子もなく、おそらく秩父困民党の農民結集力、高利貸打ちこわし、役場の奥印帳焼きすてにしめした行動力を眼のあたりにみて、この蜂起の維持のなかに、最高の目的の達成をみとめるようになったのであろう。負債からの自由を待望する農民はどこにでもいる。困民軍はどこに行っても、兵力を再生産できるという楽観主義が、かれを徹底的抗戦派たらしめたのではなかろうか。そしてこの抗戦論にしても、また自由党的革命ロマンティシズムに裏うちされ、あくまで軍隊との正面衝突をさけ、しかも蜂起を持続させるところに活路があると信じているようだった。”

“大日向から宣伝煽動は開始され、北相木からこの侵入に参加した菊地恒之助もいるので、夜のうち南北相木に連絡がついた。いずこも「貧者九分ニ、富者一分ニ居レリ」といわれる負債農民の村であり、とくに佐久自由党の政治主義の影響を受けているため、負債延期と減租は、政府打倒という観念、さらには平等主義の思想と結合し、なまのことばで説かれたことが土地の聞書きにも、東京の新聞にも出ている。”(『秩父事件』井上幸治著 中公新書 1968 p.150−151,160)

この蜂起の敗北はおそらく農民たちの感情に深い陰影を与えたことでしょう。また、この後成立する寄生地主制はこれらの農民をがんじがらめとし、長塚節『土』や明治期の自然主義文学にみられるような日本農村の陰鬱な風景を作り出したのでした。

けれども、この『大日向村』では移住先の満洲にもともと住んで、畑を耕していたはずの中国人農民や朝鮮人農民の姿はまったく現れて来ません。まるで開拓をすべき土地が無人で待っていたかのような印象を与えるのですね。実際には中国人農民や朝鮮人農民は「満洲国」に土地を買い取られ、もしくは強制的に奪われたりして、「石もて追われて」いったのですが。『大日向村』のなかでは日本人農民に対して中国人農民や朝鮮人農民はまったくの「外部」に属しているということができるでしょう。それと同様な疑問をこの鬼薔薇さんが紹介してくださった文章―つまり『怒りの葡萄』のスタンスにも感じるのですね。

>しかし、大砂塵に最も激しく見舞われた地域がオクラホマ州やカンザス州を中心にした、アメリカ中部の大草原地帯であったことを考えると単に天災とばかりは言えない側面が浮かび上がってくるのである。というのも、この地域は、そもそも年間を通じて降水量が少なく、その意味では耕作には適さない土地だったのである。この地域の土壌・気温・降水量などに最もふさわしい植生(生態学では極相と呼ぶ)は背の高くない草であり、それゆえ大草原が拡がっていたのである。作家ローラ・インガルスが『大草原の小さな家』で描いているように、19世紀から20世紀にかけて、多くのフロンティア・スピリットに溢れた開拓農民が草原地帯に入植し、開墾して耕作を開始したのだった。

この『草原地帯』はそれ以前無住の荒野だったのでしょうか。19世紀から20世紀にかけて、“多くのフロンティア・スピリットに溢れた開拓農民”が「入植」した草原地帯の先には同じように「石もて追われた」アメリカン・インディアン(ネイティヴ・アメリカン)たちがいたのではなかったのでしょうか。

たとえばオクラホマ州の場合:

http://www.plans.jp/shashinshu/seibu/112.html

スルタンガリエフがコロンブスについて書いた文がありますけど、アメリカの場合ネイティヴ・アメリカンという「外部」の存在を欠くのならば、アメリカ史はピルグリム・ファーザーズから始まる白人移住史へと限りなく「一国的」矮小を遂げてしまうのではないでしょうか。アメリカのネイティヴィズムとはまさにそういう「神話」を基礎にしているのですね。

ところで、この『怒りの葡萄』の紹介文で描かれたような「土地」の収奪史は、過去のアメリカの話だけではなく現在中国の内モンゴル地方で進んでいる事態そのものですね。1980年代に始まる中国の改革開放政策は、内モンゴルではモンゴル牧民による草原の使用権とそこでの自営牧業という形になりましたが、市場経済に巻き込まれた牧民たちは自分の使用できる草原の範囲内でできるだけ多くの羊や牛を飼おうとし、また漢族の農民たちはモンゴル人から草原の使用権を買い取って、そこを開墾し始めました。結果、牧業としては過牧圧で、農業としては草原を開墾したために生態系のバランスを崩し、草原が砂漠化する事態が進んでいるわけです。中国政府としては過牧圧を主要原因とみなして草原の保全のためモンゴル牧民を草原から都市へ、もしくは別の地域に強制的に移住させる手段を取っていますが、この方法ではモンゴル人の民族的誇りを奪ってモンゴル人のより一層の絶望と怒りを買うだけでしょう。そして中国の市場経済化の波は今日の“グレート・ダスト・ストーム”を日本にまで「黄沙」として飛ばしているわけです。
 

おひさしぶりです

 投稿者:臨夏  投稿日:2005年11月12日(土)16時21分14秒
編集済
  どうも、ログを読んではいるのですが、皆さんの圧倒的な書き込みのまえに、言うべく言葉もなかなか見つかりません。
ひとことひとこと言わせてください。

アメリカ>
左翼にはアメリカが見えていない、、旨(臨夏要約)のコメントがありましたが、
アメリカには、日本人は強く憧れている/いた割には、よく見えていないのでしょうか。
日本人にとって、アメリカとは何か、、この地盤的な問題が、まだ熟考されてないようですね。

レーニンとアメリカの関係は、興味深く読みました。

するとどうしても、「中国とアメリカ」のことを考えてしまいます。
ロシアにジョン・リードがおったとすれば、
中国では、エドガー・スノウでしょうか(笑
毛沢東も、個人的レベルにおいても、スノウが好きやったみたいですし。

アメリカ人が言うたことか、日本人か忘れましたが、中米デタントのころのアオリ文に、
「毛沢東はアメリカに憧れていた/好きやった」みたいな文句がありました。
権力者の個人的嗜好から社会は読み取れませんが、
あんがいこれは、ええとこついてるような気がするのです。

問題が、「左翼共産主義とアメリカ」なのか、「中国とアメリカ」なのかは、わたしにはわかりません。
そもそも、これは、なんという学問領域で研究すべきトピックなのでしょう。
(いま大学で、『文明の生態史観』梅棹忠夫を皆に「読ませて」おりますが、「生態史観」というわけでも
なさそうですね(笑)。しかし、これくらいの、自由な発想の転換は必要、と感じます。)

もうひとこと(^^;
>草原

アメリカにも、そういう草原があったのですね!
わたしも、アメリカ音痴で、せいぜいニューヨークしか知らないし、
中西部の保守的農民なんか、まったく見えざる他者です。そもそもそういう土地に日本人どのくらいおるのかしら。
司馬遼太郎が、しきりに、モンゴル草原の生態破壊について、
「草原は、森林と違って、復元できない」と言うていたのを思い出します。

森林は、伐採しても、また何百年かしたら復元に向かうが、草原は、表土が日に炙られてチリチリになってまうと、
砂塵になって飛んでいってしまい、そこは不毛の地面になるとか。
アメリカのそこいらは、いまどんなんなんでしょうね。

横レス失礼致しました。m(_ _)m
 
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参考「アメリカのポピュリズム」

 投稿者:蘇丹・加里耶夫  投稿日:2005年11月12日(土)15時40分31秒
編集済
  >ウディ自身のスタンスはあくまで「放浪詩人」でも、それがかつての「オクラホマ放浪農民」を含む「ウルトラ化」した大衆の「草の根」からの動員体制の動きに、どのように噛んでいったのか。

>将棋のコマが一斉に裏返ってゆくイメージ。もとのコマに応じて裏側の文字も異なってくるが、コマひとつひとつの固有性以上に、一九三〇−四〇年代という時代、その時代に一斉にあらわれたかのような裏返りの構造に興味があったわけです。「スターリニズム、ナチズム、ニューディール」のくくりはポラニー『大転換』絡みで使われることが多いのかな、でもこの意味でこのくくりも受容できました。(IWWといえば  投稿者: ストリング  投稿日:11月 1日(火)21時11分29秒)

アメリカのニューディールに限らず、世界各国の1930年代の民衆運動のひとつの特徴は「政府・国による救済」を目指すことだったと思いますが(そしてそれはファシズムへとも直接つながるものでしたが)、個別アメリカではこのニューディール期の農民の動向を考える時、その先駆的存在として19世紀末の「人民党」The Populist Partyの運動は、アメリカ固有の「ポピュリズム(人民主義)」運動の起源としても、また資本主義の転換期の大衆運動のひとつの特徴としても、記憶にとどめていておいてよいかと思います。

“一八九四年のストライキでの敗北後、労働者たちは、自分たちの要求を政治的方法によって訴える方向を探り始めた。しかし二大政党は彼らの要求には耳を貸さず、そのようなとき、農民たちが第三政党として人民党を結成していた。一時的ではあったが、労働者たちは同じ「生産者階級」として農民たちとの共闘を考えたのだった。
 人民党は、もともと一八七〇年代の終わりにテキサスで起こった農民の生活協同組合的な運動「農民連盟」が南部から中西部一帯に広がり、次第に東部資本家と対抗する社会改革運動として発展し、政党として結成されたものだった。農民たちは国際市場での供給過剰による農産物価格の低下、銀行からの負債、農民に対する不当に高額な鉄道運賃などに苦しみ、打開策のひとつとして通貨量の増大によるインフレ対策を要求していた。そして一八八〇年年代末には、通貨量の増加だけではなく、より根本的な資本主義体制の変革に関わるような議論がなされるようになった。九〇年の選挙では、中西部各地で農民連盟の代表者が民主党を圧倒したり、また独自の政党を組織して、四人の州知事や四〇人以上の連邦議会議員などを送り出した。九二年には、ネブラスカ州オハマで人民党を結成することになる。そこでの綱領は当時の社会を批判し、具体的な改革案を提起した点で斬新なものであった。綱領の前文は、「我々は、国家の道徳的政治的物質的荒廃の真っ只中に集合する」、「何百万の人々の苦役の果実は、厚かましくも、人類の歴史に例を見ない巨大な富を築こうとする少数の者によって盗まれている。そして、これらの富の所有者は共和国を軽蔑し自由を危険に陥れているのだ」と訴えている。そこでは、「ふたつの階級――浮浪者と百万長者」というアメリカ社会のコントラストを生み出している「政府の不正義」を非難していた。綱領はそういった極端な貧富のコントラストをなくして正義を取り戻すための具体的方法として、自由な銀貨の鋳造(インフレ対策)、累進課税、外国人による土地所有の禁止、鉄道および電信電話の国有化などの経済政策、合衆国上院議員の直接選挙、住民の発議による立法の制度、秘密選挙制、女性参政権などの政治的民主化政策を要求していた。さらに、労働者との共闘をめざし、八時間労働や、労働賃金を低下させると考えられた移民の制限なども掲げていた。九二年の選挙では独自の大統領候補も立て一〇〇万票以上を集め力を示した。その翌年の経済恐慌の影響もあり、九四年の選挙ではさらに得票を一五〇万まで伸ばし二大政党に脅威を与えた、こうした、農民連盟から始まった人民党の運動のなかで注目されたのは個性的な論客たちだった。彼らは中西部各地を中心に演説して回り、農民や労働者の不満を巧みに代弁して多くの支持者を集めた。なかでも、アイルランド生まれの弁護士メアリー・リースは、女性参政権を主張し、また、農民たちに「穀物でなく大騒動をつくり出そう」と呼びかけ、その過激な発言で知られた。
 二大政党でも特に民主党にとって、人民党は南部や中西部において支持基盤を共有する部分が多く無視できない存在となっていた。他方、共和党は外国製品に対する高関税政策による産業の回復、繁栄の復活を唱え、不況下の労働者の支持を獲得していた。労働者といってもその多くは、体制の変革に通じる改革よりは、目先の経済的利益につながりそうな方策に引かれたのである。農民の支持者を人民党に奪われる危機を感じた民主党は、人民党の政策を取り入れることによって勢力を取り戻そうとした。一八九六年の選挙では、共和党が、東部資本家の利益を代表し通貨量の制限を意味する金本位制の側に立つウィリアム・マッキンレーを大統領候補に指名した。これに対抗し、民主党は人民党勢力の強い中西部ネブラスカ州出身のウィリアム・ジェニングス・ブライアンを指名した。民主党大会で、ブライアンは西部農民の東部資本に対する反感を代弁して共和党の金本位制支持者を攻撃し、「人類を金の十字架に磔にしてはならない」とテノールの美声で訴えて大会参加者を感動させ、大統領候補の指名を受けた。人民党は、自分たちの立場を代表する民主党のブライアンを推すか独自の候補を立てるかのジレンマに立たされた。前者を選択すれば民主党に吸収されることが予想され、後者では民主党と票を奪い合い共和党に敗北することが考えられた。結局、人民党はブライアンを大統領候補に指名したが、選挙では人民党が掲げていた広範な改革案は背後に退けられ、「フリーシルバー」のスローガンの下に銀貨の鋳造によるインフレ政策が全面的に掲げられることになった。
 九六年の選挙では共和党のマッキンレーが圧勝した。その後、景気も回復の兆しを見せ始め、共和党は繁栄の政党として一九一〇年代初めまで政権を維持していくことになる。そして、農民や労働者の利益を代表する政党であった人民党の運動も消滅の道をたどることになった。人民党は特に南部ではその衰退の過程で、以前は同じ弱者の立場から共闘さえ試みようとした黒人に対して激しい人種差別をするなど末期的症状に陥った。人民党の運動は資本主義の発展に置き去りにされた農民たちが、農本主義的な過去の社会への非現実的な郷愁と見ることもできる。しかし、資本主義社会の問題点を鋭く追及し、政府による問題の解決という新しい考え方を提起した点で大きな意義があった。彼らが要求した経済的政治的改革の多くは、二〇世紀に入ると政府・議会によって取り上げられ実現されることになる。二〇世紀には、自由放任の下で資本主義が発展した一九世紀とは異なり、国家がアメリカ社会の格差、すなわち本章でコントラストとして描き出してきた社会の状態に介入してこれを是正するという新たな原則の下に政策が立てられることになるが、この考えを最初に大々的に打ち出し次の世紀に伝えた点に、人民党の重要性があった。世紀末にはそれまでの自由放任主義からの転換が示唆されていたわけであるが、その大きな刺激となったのが人民党、そして労働者の運動であった。”(有賀有紀著『アメリカの20世紀』上巻 中公新書 2002 p.37−41)

人民党は衰退してしまいますが、この後「ポピュリズム」は20世紀初頭から始まった「革新主義」(Progressivism)と並んでアメリカ政治、特に民主党の政策基調のひとつとなり、この延長線上に「ニューディール」政策もあったのだと思います。そしてこの「ポピュリズム」を30年代に擬似ファシズムの手法まで「高めて」ローズヴェルトの「ニューディール」に対抗した男が、「ルイジアナの独裁者」“キングフィッシュ”ヒューイ・ロング(1893−1935)でした。

“そのなかで最も強力なのはロングだった。彼は企業およびそれと結託した政界を攻撃し、一九二八年には知事に選出され、学校や病院、道路を建設したり、無償で教科書を配布したり、光熱費を引き下げたりなどし、大衆の絶大な支持を受けていた。そして彼は、ルイジアナの政治において独裁的支配権を握り、「私がルイジアナの憲法だ」と豪語するほどだった。三〇年の選挙で上院議員となり、初めはローズヴェルトを支持していたが、政権発足後半年もすると、より徹底した改革として「富を分かち合おう計画」を提唱し、政権に反対するようになった。一〇〇万ドル以上の年収と五〇〇万ドル以上の財産に高額な税をかけ、そこから得た財源によって、各家庭に五〇〇〇ドルの家屋敷と二五〇〇ドルの年収を保証するというのが、「富を分かち合おう計画」の内容であった。ロングは、「富を分かち合おう協会」を組織し、大統領選挙に向けて運動を始めた。「協会」の支持者は彼の出身地の南部だけではなく全国に広がり、会員数は公称で七五〇万人以上とされたが、少なく見積もっても四〇〇万は下らなかったと推定される。民主党全国委員会が三五年春に行った調査によると、ロングが第三党を結成して大統領選に立候補すれば全投票数の一〇パーセントを獲得すると予想された。同年九月、ロングは暗殺されその政治活動は短命に終わったが、華々しい個性で大衆を引きつけた「独裁者」ロングは、アメリカにおける反エリート主義の歴史に名をとどめている。”(有賀書、上巻 p.159−160)

“ヒューイは多数を占めるかれら貧しいものたちに訴え、富の再配分による弱者の救済を叫んだのだ。その一方で、大企業と金融資本を社会悪の根源として指弾し、既成の政治家たちをその手先と決めつけ、これらの打倒を訴えたのである。この姿勢は、最初の選挙から「SOW運動」(引用註:「富を分かち合おう運動」)にいたるまで、終始一貫したものであった。
 ロングのこのような政治スタンスには、ポピュリズムの影響がある。ロングが生まれ、成長期を過ごしたウィンフィールドという町は、ルイジアナのなかでも特に運動の激しかった地区であった。
 ポピュリズムとは、一八九〇年代のアメリカで、西部と南部の農民を中心として結成された政党、人民党の主義・政策のことである。
 かれらの主義は通貨の増発、累進所得税、鉄道・電信電話の国有化、秘密投票制度、人民投票制度、大統領の任期制限と上院議員の直接選挙などであった。人民党は五回にわたって大統領候補を送り出し、なかでも一八九二年と一八九六年の選挙では善戦した。
 しかし、けっきょくポピュリズムは挫折した。ペリカン州(引用註:ルイジアナ州のこと)でも、<都市>と<農村>、あるいは<富者>と<貧者>の対立の構図を先鋭化させてこの運動は頓挫し、貧しい人びとのあいだには深い挫折感が広がった。ロングはこの暗く鬱屈した感情を利用して――つけ込んで、といってもよいだろう――民衆の組織化と既成勢力の打破をはかったのである。
 <民衆の組織化>と<既成勢力の打破>、それに<反=大企業のキャンペーン>。これがヒューイ・ロングの三大要素である。しかしそのことは決してかれが革命を志向したということを意味しない。どれほど反体制的にみえようとも、ロングの政策は反資本主義ではまったくない。彼はいわば<革命を装った改革主義者>なのである。”(『アメリカン・ファシズム ロングとローズヴェルト』 三宅昭良著 講談社選書メチエ 1997 p.17-18)

1930年代において「政府・国による救済」を求めた「草の根」大衆とそれに応える形である程度の「国家による救済」「大企業(的道徳観念)への規制」を行った国家、このあたりに“かつての「オクラホマ放浪農民」を含む「ウルトラ化」した大衆の「草の根」からの動員体制の動き”の大衆の側からする主体的原因があったのではないでしょうか。そして19世紀末−20世紀初頭と、30年代という資本主義にとって大きな節目の時期は、「ポピュリズム」運動の挫折とその最終的な「ニューディール」への収斂という形で大衆の「アメリカ国家」への統合がなされた時期でもあったのでしょう。

“……これらの煽動的な指導者に率いられたいわば草の根の運動は、経済的困窮に対して政府に援助を求め、また、組織化され強大化する企業の力に無力さを感じる大衆の心情を代弁していた。こうした大衆のニューディール批判の高まりは、ローズヴェルト政権にとって大きな脅威となり、新たな政策が考えられることになった。”(有賀書、上巻 p.161)
 
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〔参考〕映画『怒りの葡萄』を読む

 投稿者:鬼薔薇  投稿日:2005年11月11日(金)22時10分55秒
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さて、冒頭の字幕に言うところの「自然の猛威」と「経済変動」についてあらためて考えてみよう。

 「経済変動」とは、1929年に始まる大不況を通じてさらに進行した、アメリカにおける資本主義的な経済システムの徹底深化である。その結果、農業経営のあり方も大きく変化した。すなわち、比較的小規模の土地を労働集約的に耕作する農業から、広大な土地をブルドーザーやトラクターなどの大型農業機械を駆使して耕作する資本集約的な農業への変化が急速に進行したのである。一言で言うなら、農業の資本主義化である。

 機械化と土地の集約化を伴いながら進行する農業の資本主義化は、当然にも小農や小作農を零落させ、彼らを土地から追い立てる。ミュリー一家のぼろ家がブトーザーに押しつぶされるシーンは、映画「怒りのぶどう」の中でも最も悲惨で胸が痛む場面の一つであるが、実際、1930年代、ミュリー一家だけでなく、数多くの貧しい小農や小作農たちが長年耕してきた土地を奪われ、移動農業労働者としての苦難の生活を強いられたのである。彼らを追い出したのは誰か? 直接、家を押しつぶしたのはブルトーザーとその運転手(皮肉にも元農民)だが、もちろん、運転手の背後には彼を雇っている「会社」があり、さらにその背後には会社に金を貸している金融資本、すなわち「銀行」がある。

 貧しい人々に対する熱い共感と、貧しい人々を生みだし、彼らを貧しさの中に押し止めておこうとする、容赦の無い資本主義経済というシステムに対する憤りは、「怒りのぶどう」の原作者スタインベックと映画監督ジョン・フォードによって共有されており、同時に、多くの読者や観客にも共有されるだろう。

 しかし、生態学の立場から、あるいは自然と人間との共生という視点から、ジョード一家の物語を見直してみると、別の問題が浮かび上がってくるのである。

 農民たちを土地から追い立てたもう一つの原因である大砂塵は果たして単なる「自然の猛威」だったのだろうか、という問題である。干ばつとそれに続く大砂塵は、それ自体としては確かに天災であり、その意味では「自然の猛威」としか言いようがない。しかし、大砂塵に最も激しく見舞われた地域がオクラホマ州やカンザス州を中心にした、アメリカ中部の大草原地帯であったことを考えると単に天災とばかりは言えない側面が浮かび上がってくるのである。というのも、この地域は、そもそも年間を通じて降水量が少なく、その意味では耕作には適さない土地だったのである。この地域の土壌・気温・降水量などに最もふさわしい植生(生態学では極相と呼ぶ)は背の高くない草であり、それゆえ大草原が拡がっていたのである。作家ローラ・インガルスが『大草原の小さな家』で描いているように、19世紀から20世紀にかけて、多くのフロンティア・スピリットに溢れた開拓農民が草原地帯に入植し、開墾して耕作を開始したのだった。このような努力は、一時的にはアメリカの農業生産力を高め、特に第一次世界大戦中、アメリカはヨーロッパの穀物倉庫として多大の利益を挙げた。しかし、この地域の開墾は、生態学的にみれば、安定した状態にあった極相の破壊、あるいは生態系の破壊を意味していた。

 そして、本来、耕作に適さず、むしろ草原を利用した牧畜に向いている土地を強引に耕作地にしたツケは、いつかは払わねばならない。耕作によって表面を覆っていた草を失い、露出した土地は、この地方をしばしば襲う干ばつによって乾燥し、1930年代、折からの強風によって砂塵となって舞い上がったのであった。ツケの支払いは高いものについたのである。

 そのように考えると、痩せた土地を、多大のエネルギーを使って開墾し、努力の割には多くを報われず、挙げ句の果ては、農業の資本主義化に取り残され、土地を追われたジョード一家のような開拓農民たちには、まことに残酷な言い方になるが、大砂塵は、まさに開拓の結果として起こった人災とさえ言えなくもないのである。

 「怒りのぶどう」の原作が書かれ、映画が製作された1930年代〜40年代当時は、このような生態学的な知識は十分には知られていなかったために、大砂塵は単に「自然の猛威」と考えられ、原作者や映画制作者の関心は、もっぱら社会経済システムの問題とその告発に向かったのであった。しかし、現代の観客ないし読者は、この物語の中に、資本主義経済の矛盾と同時に、人間の営みと自然環境との危うい関係ないし矛盾をも読みとらねばならないだろう。

 映画「怒りのぶどう」を読む、とはそういう意味である。
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 http://home.hiroshima-u.ac.jp/nkaoru/Grapes.html
 
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大砂塵>ストリングさま

 投稿者:鬼薔薇  投稿日:2005年11月11日(金)22時08分34秒
  いろいろご紹介いただきながら応答遅れました。m(..)m

アレン書の訳本は54年でしたのね。「8回大会後の青木は…」なんてとんだオトンチキでした(^^)ヾ レンショウの本は見た記憶あるのですが“見た”だけで、いずれにせよわたしの「アメリカ」関心の薄弱さが照らし出されます(^^)ヾ。

ストリングさんのご関心(というか感触? 感性? 触覚?)のなかでは、「歌」の比重〜作用度が高いのですね。アキラからアメリカ・フォークまで。そういえば、日本では「雪山賛歌」に化けてしまう「愛しのクレメンタイン」も、カリフォルニアのゴールドラッシュを背景にした出稼ぎ労働者の歌でしたか。

>米国。個人的には、一九三〇−四〇年代のウディ・ガスリーの動きへの興味がありました。

”砂嵐避難民(Dust Bowl Refugees)”と言われて思い出すのが、スタインベックの小説『怒りの葡萄』、翻訳で読んだのは60年安保の少し前だったでしょうか。こちらはIWWの歴史から「大恐慌」をまたいだ次の時代になりますね。

ご紹介のレコード(CD?)「解説」も秀逸と思いました。これに対応する記述に出遭いましたので、別ファイルでご紹介しておきます。先刻ご承知かもわかりませんが、他の方のご参考にもなろうかと。いえ、URLをコピーすればすむのにわざわざ、というのは、先のお書き込みとこの記述がわたしのなかで共鳴して、いささか感動を覚えたもので(笑)。

今で言う「エコロジカル」な問題をここから引き出すこと、もちろん容易でございますが、アメリカ“国内”の「労働移動」というものが、地理的な距離からしても社会的空間の広さとしても、ヨーロッパやアジアでいえば“国境を超えた”ものに相当することもうかがえます(中国でも事情は似たものかなと想像するのですが)。

ということを踏まえてご発言の後段を読ませていただきますと、

>ウディ自身のスタンスはあくまで「放浪詩人」でも、それがかつての「オクラホマ放浪農民」を含む「ウルトラ化」した大衆の「草の根」からの動員体制の動きに、どのように噛んでいったのか。

お書き込みの主題はむしろこちらと拝読いたします。

>将棋のコマが一斉に裏返ってゆくイメージ。もとのコマに応じて裏側の文字も異なってくるが、コマひとつひとつの固有性以上に、一九三〇−四〇年代という時代、その時代に一斉にあらわれたかのような裏返りの構造に興味があったわけです。「スターリニズム、ナチズム、ニューディール」のくくりはポラニー『大転換』絡みで使われることが多いのかな、でもこの意味でこのくくりも受容できました。

ここには、[談話室]でご提起いただきながらわたしが応答できぬままでおります「大恐慌」前後での資本制の転質というテーマと、当読書会の初期にご提出の(その後もう一度再説されました)“「帝国主義論」を「大衆社会状況」との関連で読む”という問題関心とが、ふたつながらに重ねられているものと受け止めることができるかと存じます。

アメリカ合衆国は「民族・人種の坩堝」とか言われれば“あ、そうか”などと軽く思ったりもいたしますが、「民族−階層−大地」の動態関係を通じて「資本の論理」が貫徹し、そこに「階級」の本来的な性格規定が表出する、というふうに捉えないと、重層する現象のダイナミズムにおめめグルグルになってしまうほかございませんね。小冊子『帝国主義論』には、そうした領野へいくつも窓が用意されていることを知らされます。

この窓を押し開くのは、“「資本主義の世界性から自らを切り離して、一国レベルに閉じこもりたい」という、今日の「ぷちナショナリズム」と共通する側面”と蘇丹・加里耶夫さんが分析される現代の社会心理規制と闘うことを意味いたしましょう。「金融的絞殺と植民地的抑圧の世界体系」という「仏独語版序文」の規定に、何度でも立ち帰る必要を痛感いたします。

「大砂塵」――ペギー・リーの唄に惹かれて観た“流れ者”映画と、スタインベックの小説と、若い頃バラバラにインプットされたまま放置してきたものが、ここに到ってようやく(レーニンを媒介として)「マルクス主義的」に統合されるかどうか(笑)、というところへたどりつきそうな感がいたします。

引き続きよろしくどうぞ。m(..)m
 
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“鬼の霍乱”ではないけれど(苦笑)

 投稿者:鬼薔薇  投稿日:2005年11月 7日(月)22時43分41秒
編集済
  家業にかこつけて都心へ出たついでに、半日本屋廻りをいたしました。
神田の古本屋街などへ足を向けたのはほんとに久しぶりですが、良い買い物ができました。

ここで話題になったものとしては、

アレン・オースチン著/雪山慶正訳『アメリカ労働運動の歴史』(青木新書)
ボイヤー/モーレス共著『アメリカ労働運動の歴史』(岩波現代叢書)

は見つけ物(^^)v。特に前者は、“古き善き時代”の記念物のよう。善き、といっても左翼運動にはささくれ立った時代であったことでしょうけど。でも、この原書が書かれたアメリカでは、反共主義の嵐が労働運動と進歩的社会運動の上に吹き荒れていたこと、そうした事情をこの訳書の向うにさしのぞきながら読むべきなのでしょう。
雪山さんが経済ご専門だったことも奥付で初めて知りました。

それと、これは新刊本ですけど、蘇丹・加里耶夫さんご紹介の
堀江則雄『極東共和国の夢 クラスノシチョコフの生涯』(未来社)

埋もれた歴史を発掘する著者の情熱にはあたまがさがります。そして、“ロシアは日本の隣国”という単純な事実そのものがわたしたちの意識から遠ざけられていた歴史にも思いが及びます。著者は「赤旗」の最初のアメリカ特派員だったのですね。

ところが、いい気になって風に吹かれて歩いたせいか、週末からぐじゅぐじゅしていた風邪が悪化して夜になったらひどく熱っぽく(^^; 帰宅後の入浴もいけなかったみたい。

いくつかレス書きかけてはあるのですが、今夜は焼きニンニクでもかじって休みます。
皆さまもどうぞお気をつけて。
 
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RE:雑談:レーニンの「アメリカ」認識/続き>鬼薔薇さま

 投稿者:蘇丹・加里耶夫  投稿日:2005年11月 3日(木)23時31分30秒
編集済
  >もうひとつが「移民」論であること、これはこの読書会を通じてようやくわたしの意識にはっきりとのぼってきたテーマでございました。その問題関心を開かれておればこそ、「資本主義と労働者移民」にも目が行き、数表が崩れずにすむタグの使い方を見つけたりもしたのですね(笑)。でも、次のご指摘にはまったくメウロコでございました。

「移民」は階級問題であると同時に「民族」問題でもあると思うのですね。「帝国主義本国−植民地」であれ、「先進資本主義国−低開発国」であれ、「資本主義の世界性」に沿った形で、「移住労働者」も発生します。そして移民労働者の「階級」としての相貌(移住先での)と「民族」としての相貌(出身国・出身地域とのかかわり)が、「資本主義の世界性」の多層構造の労働現場における結果として表現されていると思うのです。レーニンは「階級」を単層的なものとして把握していますけど、それはレーニンもやはりカウツキーから引き継いだ観のある「民族」をどう把握するかという問題が、地理的・実体的概念に引きずられているせいでもあると思うのですね。(カウツキー「民族」論の完全な公式化・教条化はスターリンの『マルクス主義と民族問題』ですが)もちろん時代的制約もあるでしょう。ただ、これもわれわれが第二インター流「一国=一民族」観、ないしはスターリン主義流の公式的「民族」観でレーニンを読んでしまっているせいでもあって、この辺はもう一回レーニンを「洗いなおす」必要があるとは思っています。

>ジョン・リードの伝記(というか当時の社会主義者列伝というべき)映画『レッズ』で、ロシアへ出かける前のリードたちのたまり場に「IWW」のポスターが映っていたのが印象的でございました。別に「武装闘争」などをやっていたわけではないこの労働者組織をアメリカ政府と資本は(おそらくゴンパースらのAFLも協力して)暴力的に粉砕する挙に出るわけですが、踏み込んだ警官隊の靴にIWWのビラが踏みにじられるシーンがあったかと記憶いたします。

『レッズ』の前半のハイライト・シーンでジョン・リードがストをしている工場労働者の前で演説するシーンがありますけど、演説をしり込みするジョン・リードに対して「資格?何の資格だ?資格は誰にだってある!話せ!」と言ってジョン・リードに迫り、ジョン・リードの演説の通訳をしてやるこのロシア人労働者もまた、ニューヨークに四年住んでいたという設定でしたね。

>その後(1930年代に)AFLから分裂したCIO (産業別労働組合会議) が第二次大戦後に再統合して「AFL−CIO」になりますね。この統合に加わらず残った旧CIO左派の港湾労組では、メキシコ人を中心にした移民労働者が多数を占めており、共通言語は英語ではなくスペイン語だと聞いたことがございました。

以前旅先でアメリカ人(白人系)の若いカップルに出会ったのですが、この二人は西海岸出身の社会運動活動家で、当時一緒に旅行していたベルギー人とスペイン語で話していたので、「へぇー、スペイン語もできるんだ」と言ったら、「西海岸の活動家はみんなスペイン語ができるよ」と言ってましたね。確かに街によっては人口の半数がヒスパニックのような街も西海岸にはありますから、どんな活動をするのでももはやスペイン語は必要不可欠なのでしょう。

>アメリカ労働運動の歴史については、以前にはアメリカ共産党のウィリアム・フォスターの著書(大月書店)とか、ボイヤー/モーレスの共著『アメリカ労働運動の歴史』(岩波現代叢書)とか、日本人研究者によるものもいくつかあったのですが、今ではどれも入手困難でしょうね。

IWWにのみ関して言えば、ストリングさんにあげていただいたP・レンショウの本のほか、『ビッグ・ビル ヘイウッド[1889〜1928IWWと アメリカ労働運動の源流]』M・ドボフスキー /久田俊夫訳 批評社 や『アメリカ・サンジカリズムの群像』久田俊夫著 未来社 などがあるようですね。アメリカ労働運動史の研究者である久田俊夫さんはほかにも数点著作があるようです。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-url/index=books-jp&field-keywords=%E4%B9%85%E7%94%B0%E4%BF%8A%E5%A4%AB/ref=xs_ap_l_xgl14/250-8681545-4264237
 
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RE:雑談:レーニンの「アメリカ」認識/レーニンと「アメリカ」>鬼薔薇さま

 投稿者:蘇丹・加里耶夫  投稿日:2005年11月 3日(木)22時27分1秒
編集済
  コメント、ありがとうございました。

>いったいに日本の「マルクス主義」は「アメリカ」に弱い傾向があるのですが、それを自分の不勉強の口実にするわけにはまいりません(苦笑)。

ここは非常に難しい点だと思いますし、私はここに左翼云々を超えて戦後日本のアポリアの一つが露呈していると考えていますが、さしあたり「日本左翼」の問題としては「反米ナショナリズム」との関連で考えなければならないでしょう。新左翼が「一国革命」に「世界革命」を対置して展開したはずの70年安保・沖縄闘争が最終局面で「反米闘争」へと変質してしまったこと、また今日では9・11の新左翼一部党派の評価に代表的に見られるような「反米闘争」への傾斜は本人たちの主観的な意図を超えて「資本主義の世界性から自らを切り離して、一国レベルに閉じこもりたい」という、今日の「ぷちナショナリズム」と共通する側面を持ってしまっているのではないでしょうか。その意味で『帝国主義論』の「小ブルジョア的帝国主義批判」への批判が指し示す内容は、きわめて「今日的」ですらあると思います。

>戦時下のチューリヒにあって“フランスとイギリスの文献のある程度の不足にまたロシアの文献のきわめていちぢるしい不足に、なやまされなければならなかった”(序言)と嘆くレーニンですが、それでも入手できるかぎりのドイツ語文献やイギリス文献を通じて工業や農業の動きを見つめ、懸命に「アメリカ」像を追及していたのでしょう。断片的には「知って」いたつもりでしたが、今回の一連のコメント拝読し、ようやくその断片が少しつながり始めてまいりました。たとえば先日の短評「資本主義と労働者移民」も、打ち込んだわたしのなかで「IWW」とは結びついていなかったのが実相なのですね。

おそらくレーニンはIWWの「無政府主義的、アナルコサンディカリズム的傾向」に対して批判的であったので、この「資本主義と労働者移民」の中ではあえて触れなかったのかもしれません。それに固有の運動名を出すまでもなく、レーニンの考えでは先進資本主義国における移民労働者の増大は、アメリカに限らず世界的趨勢であり、とすればサンディカリストたちのみではなく、各国のマルクス主義者も移民労働者の組織化に向かうのが当然の任務である、と考えていたのでしょう。

>記憶にあるレーニンのIWW言及は政権奪取後のもので、アメリカ資本主義の先進性、テーラーシステムにみるその産業組織に対するレーニンの関心と、他方では、「無政府主義的、アナルコサンディカリズム的傾向」に対する批判と結びついておりました。それは、まだ農業の比重が大きく工場労働者層が社会の少数派であった「遅れたロシア」でのプロレタリア革命に固有の困難がドイツやアメリカなどではクリアされているとの認識、したがってまたロシアの経験は決して普遍的なものではないとの認識に重なっていたと思うのです。

もちろんレーニンが外国ではドイツに、その資本主義の発達の面からも社会主義運動の強大さの面からも一番注目していたのはこの『帝国主義論』でも一目瞭然ですが、同様の意味で急速な政治的経済的発展を遂げつつあるアメリカの、資本主義の発展とそれが生み出す労働運動の状況にそれなりに注目していたと思うのですね。それは『帝国主義論』のなかにちりばめられるアメリカに関するエピソードにも明白なように思います。そして政権奪取後は「国家運営」の面からも。そういうレーニンの生き生きとしたアメリカへの関心は、おそらくソ連でもレーニン死去――ネップ終了――スターリン体制成立以降、あまり継承されなかったのではないでしょうか。もちろん第二次世界大戦以降の米ソ対立の冷戦構造の中では、そういう「生き生きとした関心」を持つこと自体許されなかったでしょうけど。他方アメリカのほうもロシア革命当時は民衆はソヴェトにずいぶん好意的だった、という話を何かの本で読んだことがありますが、繰り返される「赤狩り」、20年代の大量消費社会への転換、そして決定打は「独ソ不可侵条約」で、アメリカ民衆や知識人もソ連に対する好感をほとんど失ったように見えます。

ところで、革命後のレーニンのアメリカに対する関心という点で(そしてIWWのロシア革命へのかかわりという点で)、いささか興味深いと思われるのは、前にこの読書会でも取り上げたことのあるクラスノシチョーコフの例でしょうか。アメリカ社会党のデブスやIWWのヘイウッドと親しく、自身もアメリカ社会党シカゴ市委員会の委員であり、IWWの活動家でもあったクラスノシチョーコフは、ロシア二月革命後ロシアに戻ってシベリアで活動し、対白軍闘争を経て「民主制国家」としての極東共和国を創設、自ら政府首班となって活躍しますが、「即時のソヴェト化」を求める地元ボリシェヴィキと対立、最終的には極東共和国を追放されてしまいます。その後モスクワに召還され、ネップ体制のもとで、財務人民委員第二次官となりますが、ここでも古参ボリシェヴィキから疎まれて解任されてしまいます。まず、極東共和国創設以前のコルチャック政権崩壊の時期にクラスノシチョーコフがアメリカにいた妻、ゲルトルーダに宛てた手紙を見てみましょうか。


“もし君が、僕とここで出会ったアメリカ人のだれかに会うことができるなら、君はその人の話から、最初の革命の日々に君が愛してくれたように僕がいまも力強く、健康で毅然としていることを知ることができるだろう。僕は自分の事業を継続しており、それは、僕たちの前に存在する様々な問題を平和的に不屈の精神で解決し、新しい条件の下で極東を解放して再建し、建設者、実行者としての実践的なアメリカ人と、理想肌で人間的な、情熱に溢れているが、実践的ではないロシア人とを結び付けた新しい世界を建設することである。この両者は、新生活と新世界に生命を吹き込むために団結しなければならない。
 僕たちは闘って勝利した。僕たちは彼ら流儀の競技で、戦争と破壊という競技で彼らを打ち破ったが、これは僕たちの競技ではない。僕たちは新しい社会体制の建設者であり、創造者だ。戦争のための僕たちの赤軍を労働軍に変えること、僕たちの燃え盛るエネルギーを僕たちの果てしなき大地と無限の富に注ぐこと、大地と大洋を越えて愛情と同志愛の腕を広げることが、僕たちの目的である。そして緊張で張り詰めた超人間的な仕事の日々に、眠れない夜に、心の高揚と絶望の日々に、疑問が絶えずわき、回答が探究される。僕たちにそんなことが出来るだろうか、そうなるだろうかという疑問だ。”(『極東共和国の夢 クラスノシチョコフの生涯』堀江則雄著 未来社 1999 p.49−50)


このクラスノシチョーコフの発想はアメリカで政治運動・労働運動に参加し、労働大学を設立してその学長となり、弁護士として腕を振るった経歴を持つ彼ならではのものだったのでしょう。この思いのもとに彼は極東共和国創設へ奔走することとなります。また彼が財務人民委員第二次官を解任された時、レーニンがクラスノシチョーコフを評価して書いた覚書をみてみましょう。


“クラスノシチョコフと話し合った。われわれ政治局は、大きな誤りを犯したように思う。
 人々がすべてを投げ打って気の向くところに逃げだせるときに、われわれは、疑いもなく賢明で、精力的で、物事に通じ、経験豊富な人物をさんざん苦しめ、苦境に追い込んでいる。
 彼は多くの言語を知っており、英語は抜群だ。一八九六年から運動に参加した。アメリカに十五年、塗装工から始めた。学校の校長も務めた。商売を知っている。彼がほとんど全てを組織した極東共和国で、有能な政府首班であることを示した。
 われわれは、彼をあそこから引き取った。ここで、財務人民委員部が完全な無政府状態だったので、彼を財務人民委員部に据えた。彼がチフスで病床に伏せているときに、なんと彼は解雇された!!!この非常に精力的で、有能な、価値ある活動家を引き離すために、われわれはあらゆる可能なことも、不可能なこともやってきたことになる。
 彼は対外貿易人民委員部、財務人民委員部と軋轢があったが、それは彼が大きな「商売の自由」を支持したからである。
 彼は言った。「私が仕事を最後までやりきることを、活動の場で示させてほしい。私を引き回さないでほしい」。そして、もちろん、彼の要望は正当である。
 彼を最高国民経済会議に入れることを、やってみる必要がある。われわれが活動家を失わないために、彼のまったく正当な要望を実現するために、いかなる場合でもどんな代償を払っても、これをかち取る必要がある。彼を特定の仕事に就けて、せめて一年間の経験をさせて、彼を試してみること、引き回さないことだ。(どこでも働くだろう、ただ引き回すなと言っている)”(『極東共和国の夢 クラスノシチョコフの生涯』堀江則雄著 未来社 1999 p.187)


このクラスノシチョーコフへの評価を通じてレーニンの当時のアメリカに対する関心のありようがよく表れていると思います。ただ、その後最高国民経済会議幹部会員・プロムバンク(商業産業銀行)頭取と活躍したクラスノシチョーコフも、レーニンが倒れて後の1923年9月には突然逮捕され、党からも除名されてしまいます。この辺のいきさつについては別の伝記本には“……五月二四日に開かれた第一三回党大会で、ネップ反対派のジノヴィエフがプロムバンク事件に言及し、「党がクラスノシチョーコフを葬った」と政治的背景があることを示唆した。”(『ロシアにアメリカを建てた男』上杉一紀著 旬報社 1998 p.194)とあり、また堀江書でも“この逮捕事件の政治的背景も、断定的なことは明らかでない。だが、レーニンがゴールキの別荘で病床に伏しているなか党内の暗躍がつづいていた。この政治的逮捕がネップの旗振り役クラスノシチョコフに照準をしぼったネップ攻撃の先陣であった、と推測される”(同書 p.196)とされており、政治的背景のあるでっち上げ事件との見方を両書ともしています。そして彼もまた37年の「大粛清」に巻き込まれていくことになるのですが。
 

書名間違えました

 投稿者:ストリング  投稿日:2005年11月 2日(水)08時14分25秒
  こんにちは。

鬼薔薇さん、ごめんなさい、書名間違えました。

>>
>アレン・オースチン著/雪山慶正訳『アメリカ労働運動の歴史』(青木書店)

この本は寡聞にして存じませんでした。いつごろ出たのでしょう。共産党8回大会以後の青木はヨヨギ、というつまらぬ偏見で目を向けなかったのだけど(苦笑)。

雪山慶正さん、ヒューバーマン『資本主義経済の歩み』(上・下、岩波新書)その他の訳業でお名前を知り、一度だけ講演を聴いたことがございます。温厚なお人柄とお見受けいたしました。
>>

『アメリカ労働運動の歴史』ではなく『歩み』でした。Austin, Alein『アメリカ労働運動の歩み』青木新書で2冊本(1954)。

七〇年代に社会評論社から出たP・レンショウ『ウォブリーズ アメリカ・革命的労働運動の源流』も雪山慶正訳でしたね。

映画『愛とさすらいの青春/ジョー・ヒル』は公開されたはずですけど、見た記憶はありません(もともと映画はあまり見ないのです)。


それでは。
 
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『愛とさすらいの青春/ジョー・ヒル』

 投稿者:鬼薔薇  投稿日:2005年11月 2日(水)00時04分6秒
  という映画があったそうですね。
製作年度 1971年 製作 イギリス/スウェーデン 監督 ボー・ウィデルベルイ

●あらすじ ---------------------------------------------------------
故国スウェーデンを離れたジョー・ヒル(トミー・ベルグレン)と弟ポールにとって、ここニューヨーク東側地区の貧困は想像を越えるものであった。ポールは耐えきれず、単身、西部へ旅立った。1人残ったジョー・ヒルは、ふとしたことで悪戯小僧のフォックス(カービン・マラーブ)というあだ名の少年と知り合った。盗みばかり働くが、底抜けに明るく、ジョーの心を和ませた。ある日、メトロポリタン・オペラ劇場の非常階段でオペラに耳を傾けていたジョーは、彼と同種の客を見つけた。彼女の名はルチア。美しい娘ルチアの姿はジョーの心に深く刻みこまれた。
ジョーは弟のいるプレインフィールドへ旅立った。しかし弟はすでにそこを去っていた。彼は西部を目指し、途中知り合ったブラッキー(エヴァート・アンダーソン)と気ままな、自由な放浪の旅を続けた。ある日、2人は異様ないでたちの一団に出会った。各地の労働者を組織して労働運動を推進しているIWWの連中だった。ジョー・ヒルとブラッキーがある農家の納屋で寝ているとき、キャシー(キャシー・スミス)という娘に見つかるが、彼女はジョーに好意を抱き、ジョーはしばらくの間キャシーとののどかな生活を送ることに決めた。ブラッキーは1人旅立っていった。
再び放浪の旅へ出たジョーは、ある鉄道でレール運びをし、その苛酷な労働に憤って待遇改善を訴え、労働者の闘争意識を高めていった。サン・ディエゴに着いたジョーは、救世軍の唄う前で労働運動の演説をぶつ男が警官に排除されるのを見て不思議に思った。なぜ救世軍がよくて、こちらの演説がいけないのだろうと。その日からジョーの作詞活動が始まった。替え歌で労働運動を提唱するジョーに、さすがの警官たちもお手上げであった。1913年、ジョー・ヒルは正式にIWWに入会した。レストランで皿洗いをして料理人たちを、また炭鉱で働いて炭坑夫たちを煽動していった。秋が去り、雪のちらつくある日、街頭で演説していたジョーのそばを、容姿をかわれて、今ではオペラのプリマドンナになったルチアが通りかかった。
そして数日後、マクヒュー医師のところへ銃で胸を撃たれたジョー・ヒルが転がり込んできた。翌日、ジョー・ヒルは雑貨商殺しの容疑者として逮捕された。もちろん彼自身、まったく身に覚えのないことだった。ルチアをかばうジョーに、事件当日の行動を明らかにする術はなかった。証言は次々とジョーに不利なものが続き、ついにジョーに有罪の判決がおりた。IWWメンバーの努力も虚しく、刑執行の日は来た。ジョー・ヒルは短い遺書を残して処刑場へ向かった。死刑は簡単に終わった。
ジョー・ヒルの遺体の灰は、彼の遺言通りにIWWの手によって各地の支部に送られた。
-----------------------------------------------------------
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD4441/story.html

スウェーデンからの移民は「旧移民」でどちらかといえばハイ・クラスに属していたとレーニンは分類しておりますが、そういう人ばかりではなかった一例ですね。

映画、日本でも公開されたのでしょうか。

>アレン・オースチン著/雪山慶正訳『アメリカ労働運動の歴史』(青木書店)

この本は寡聞にして存じませんでした。いつごろ出たのでしょう。共産党8回大会以後の青木はヨヨギ、というつまらぬ偏見で目を向けなかったのだけど(苦笑)。

雪山慶正さん、ヒューバーマン『資本主義経済の歩み』(上・下、岩波新書)その他の訳業でお名前を知り、一度だけ講演を聴いたことがございます。温厚なお人柄とお見受けいたしました。
 

IWWといえば

 投稿者:ストリング  投稿日:2005年11月 1日(火)21時11分29秒
  こんにちは。

IWWといえば、一九六九年のウッドストック・フェスでジョーン・バエズが歌った、スゥエーデン出身のジョー・ヒルが処刑されたのが一九一五年一一月一九日。没後九〇年になるのですね。
バエズの歌にも織りこまれていたジョー・ヒルの有名な遺言が「DON'T MOURN  BUT ORGANIZE」。
もっともアレン・オースチンによれば「「ウォブリーズ」たちは、組合の組織者としてはまずかった」。が「ストライキの指導者としてはすばらしかった。彼らは能率のいい、民主的なストライキ委員会をつくり、組合員大衆が一切のストライキ活動に参加することを奨励した。彼らはことばのちがったそれぞれのグループのために別々の新聞やパンフレットをだしたり、ストライキに参加しているそれぞれの民族のなかから指導者を育てあげてこれを承認したり、移民労働者とほかの労働者との敵意を強めないで、彼らを団結っせたりすることによって、一般には分裂させられている移民労働者の仲間を団結させることに成功した」(アレン・オースチン著/雪山慶正訳『アメリカ労働運動の歴史』青木書店)とのこと。


米国。個人的には、一九三〇−四〇年代のウディ・ガスリーの動きへの興味がありました。

「30年代に”ダスト・ストーム”が吹き始めるに先立っては、白人入植者による過度の農地化の時代があった。これにより、痩せた表土は砂塵化し、それに34年から36年にかけての炎暑と強風が相俟って、時には、高さが2,000メートル、幅が150キロ、長さが1,000キロにも及ぶ、巨大な砂の壁を現出した。そうした砂嵐は、平原を通過するうちに次第に濃度を増し、視界が1メートルにも達しないこともあった。//こうした砂嵐は、南部の人々に様々な悪影響を及ぼした。農作物は全滅、家畜は飢え死に、砂塵と炎暑による肺炎が人々に蔓延し、多くの人がカリフォルニアか北部の州に移住を余儀なくされた。これらが”砂嵐避難民(Dust Bowl Refugees)”と呼ばれた人々である」(RCA盤ウディ・ガスリー『リジエンダリー・パフォーマー』へのキース・マンロー(小山さち子訳)による解説。)。

「我々を大恐慌時代のアメリカ南部の旅へと誘ってくれる」、「1930年代の”グレート・ダスト・ストーム(砂塵嵐)”期のオクラホマ放浪農民の、絶望と気概をよくとらえ」(同上)たウディ。

その彼の「ニュー・ディール」への積極的なかかわり。四一年五月に、有名なテネシーのTVAと同じWPAのダム建設計画のひとつBPAのグランド・クーリー・ダム・プロモーション用映画に参加。

そして四一年一〇月。「死者たちの名前を言ってくれ、死者たちの名前を言ってくれ//ルーベン・ジェイムズ号に君の友だちは乗っていなかったのか?」のコーラスを持つ、真珠湾以前、Uボートに撃沈された米国商船隊のルーベン・ジェイムズ号の115名の死者たちを歌った「The Sinking of the Reuben James」。いくら聞いても「戦意高揚ソング」にしか聞こえなかった。
ウディのギターに "This Machine Kills Fascists" と書かれてあったのは有名なはなしだが、F.D.ルーズヴェルトの米国にとって、「ファシスト」とは明確な像を結ぶ「指さすことのできる」言葉だった。

ウディ自身のスタンスはあくまで「放浪詩人」でも、それがかつての「オクラホマ放浪農民」を含む「ウルトラ化」した大衆の「草の根」からの動員体制の動きに、どのように噛んでいったのか。

将棋のコマが一斉に裏返ってゆくイメージ。もとのコマに応じて裏側の文字も異なってくるが、コマひとつひとつの固有性以上に、一九三〇−四〇年代という時代、その時代に一斉にあらわれたかのような裏返りの構造に興味があったわけです。「スターリニズム、ナチズム、ニューディール」のくくりはポラニー『大転換』絡みで使われることが多いのかな、でもこの意味でこのくくりも受容できました。

それでは。
 

雑談:レーニンの「アメリカ」認識・続>蘇丹・加里耶夫さま

 投稿者:鬼薔薇  投稿日:2005年10月30日(日)23時44分59秒
編集済
  産業や労働に関するレーニンの関心の深さは、政治に向けるそれと重層的な緊張構造をなしていると思うのですね。当時の状況で「無政府主義的、アナルコサンディカリズム的傾向」に対して政治的には批判的な立場をとりながら、けれどもそうした「傾向」をもって展開されていた労働運動の内実には強い共感を抱いていたのではないか、というのが当時の(いわゆる「先進国革命」議論を背景にした)わたしの「レーニン」像だったのですね。このイメージは、その後ソレルの「暴力論」やグラムシの「政治国家−市民社会」論を知っていっそう強まりました。後進国では武装闘争、先進国では「平和移行」などという構造改革派的(〜市民主義的)「先進国革命」像ではなく、発達した資本制社会における労働者の産業的団結が孕む固有の「暴力」、それに媒介された政治革命、というイメージでございます。まぁ、若かったからいろいろ頭をめぐらしてみただけのことで、それから特に深められたわけでもございませんが(苦笑)。

上のような「レーニン」像に何が欠けているかといえばいくつも挙げられると思いますが、ひとつの大きな問題が「民族」論であることは、前から意識にのぼっておりました。レーニンの「民族問題」認識を「自決」論だけに切り縮めて理解できるわけもないこと、「ユダヤ人ブント」批判からもわかることですし、第一次大戦とロシア革命を経た世界に浮上した中東問題を考える上でこれは何としても埋めねばならぬこと、パレスチナ解放闘争が血をもって示していると存じます。「バルフォア宣言」「フサイン・マクマホン書簡」そして「サイクス・ピコ協定」が構成した英・仏帝国主義の2枚舌・3枚舌外交の「アラブ分割」政策が白日の下に晒されたのは、ロシアの革命政権による秘密文書の公開でしたし。

もうひとつが「移民」論であること、これはこの読書会を通じてようやくわたしの意識にはっきりとのぼってきたテーマでございました。その問題関心を開かれておればこそ、「資本主義と労働者移民」にも目が行き、数表が崩れずにすむタグの使い方を見つけたりもしたのですね(笑)。でも、次のご指摘にはまったくメウロコでございました。

>“ブルジョアジーは、ある民族の労働者を他の民族の労働者にけしかけ、彼らをたがいに分裂させようとつとめている。自覚した労働者は、資本主義があらゆる民族的隔壁をうちくだくことが不可避であり進歩的であることを理解し、他国出身の同志たちの啓蒙と組織化をたすけようとつとめている。”という言葉の意味は具体的にはIWWとその闘争を指しているはずです。IWWは1905年設立ですし、新移民を中心に組織されたのですから。
(再論:レーニン「資本主義と労働者移民」について>鬼薔薇さま  投稿者: 蘇丹・加里耶夫  投稿日:10月19日(水)00時45分39秒 )

ジョン・リードの伝記(というか当時の社会主義者列伝というべき)映画『レッズ』で、ロシアへ出かける前のリードたちのたまり場に「IWW」のポスターが映っていたのが印象的でございました。別に「武装闘争」などをやっていたわけではないこの労働者組織をアメリカ政府と資本は(おそらくゴンパースらのAFLも協力して)暴力的に粉砕する挙に出るわけですが、踏み込んだ警官隊の靴にIWWのビラが踏みにじられるシーンがあったかと記憶いたします。その後(1930年代に)AFLから分裂したCIO (産業別労働組合会議) が第二次大戦後に再統合して「AFL−CIO」になりますね。この統合に加わらず残った旧CIO左派の港湾労組では、メキシコ人を中心にした移民労働者が多数を占めており、共通言語は英語ではなくスペイン語だと聞いたことがございました。

>レーニンを「一国=一民族」的に読むのではなく、資本主義の世界性と連動する「世界=多民族」として読むこと、これが「日本左翼」のみならず世界のどの地域であっても「左翼/民族革命派」に求められているのだと思います(笑)。
(RE:「進歩」と「反動」/「小ブルジョア的帝国主義批判」批判の「質」・2>鬼薔薇さま  投稿者: 蘇丹・加里耶夫  投稿日:10月26日(水)02時18分35秒 )

はい。それは日本人左翼の一国主義的「階級」観念との闘争でもございましょう。

IWWは現在も存在し、イギリス・カナダ・オーストラリアなどにも組織があるようでございます。
 http://www.iww.org/ja
過日のAFL−CIOの歴史的分裂についても報告されております。

その歴史については、アメリカ共産党創生期のリーダーで後にトロツキー派に転じたジェームス・キャノンの古いレポートがございました。
 http://www.marxists.org/archive/cannon/works/1955/iww.htm

アメリカ労働運動の歴史については、以前にはアメリカ共産党のウィリアム・フォスターの著書(大月書店)とか、ボイヤー/モーレスの共著『アメリカ労働運動の歴史』(岩波現代叢書)とか、日本人研究者によるものもいくつかあったのですが、今ではどれも入手困難でしょうね。
 

雑談:レーニンの「アメリカ」認識>蘇丹・加里耶夫さま

 投稿者:鬼薔薇  投稿日:2005年10月30日(日)23時42分4秒
編集済
  関係書に目配りされたコメント、とても勉強になりました。引用された有賀書のアメリカの「反帝国主義者」に関する叙述は、簡にして要を得たという以上に、目下のテーマにピッタリですね(^^)。テキスト冒頭に米西戦争が、また第9章の末尾にはアメリカのフィリピン領有問題が登場いたしますが、それが当時の国際政治関係と社会主義運動・労働運動の思想と行動にもった意味、したがってレーニンの意識に上ったさまは、テキストだけからは充分にはうかがえぬものでございました。

>私は最初レーニンはアメリカの状況をよく知らなかったので、その辺を大まかに「反帝国主義者」=「民主主義的反対派」と理解したのだと思っていたのですが、……(中略)……「いや、もしかするとレーニンはある程度はアメリカの状況を理解した上でこう書いたのかもしれない」と思うようになったのですね。

当時のレーニンより今のわたしの「アメリカ」認識の不足が照らし出された気分でございます。いったいに日本の「マルクス主義」は「アメリカ」に弱い傾向があるのですが、それを自分の不勉強の口実にするわけにはまいりません(苦笑)。

戦時下のチューリヒにあって“フランスとイギリスの文献のある程度の不足にまたロシアの文献のきわめていちぢるしい不足に、なやまされなければならなかった”(序言)と嘆くレーニンですが、それでも入手できるかぎりのドイツ語文献やイギリス文献を通じて工業や農業の動きを見つめ、懸命に「アメリカ」像を追及していたのでしょう。断片的には「知って」いたつもりでしたが、今回の一連のコメント拝読し、ようやくその断片が少しつながり始めてまいりました。たとえば先日の短評「資本主義と労働者移民」も、打ち込んだわたしのなかで「IWW」とは結びついていなかったのが実相なのですね。

>確か鬼薔薇さんからレーニンのIWWの評価のことを聞いたのではないか、と思ったんですけど(笑)

いえ、お恥ずかしい(^^)ヾ
IWWに関するレーニンの言及箇所をまだ確認できずにおるのですが、それからではいつになるかわかりませんのでとりあえず今日の段階で雑談風に。ごめんなさい。m(..)m

記憶にあるレーニンのIWW言及は政権奪取後のもので、アメリカ資本主義の先進性、テーラーシステムにみるその産業組織に対するレーニンの関心と、他方では、「無政府主義的、アナルコサンディカリズム的傾向」に対する批判と結びついておりました。それは、まだ農業の比重が大きく工場労働者層が社会の少数派であった「遅れたロシア」でのプロレタリア革命に固有の困難がドイツやアメリカなどではクリアされているとの認識、したがってまたロシアの経験は決して普遍的なものではないとの認識に重なっていたと思うのです。

最初にそのあたりを読んだのは60年代前半でしたか。当時アメリカの独立マルクス主義雑誌『マンスリー・レビュー』に「オートメーションと労働運動」の記事があって、オートメ化が進む産業実態を踏まえた「アメリカ革命」を構想するデトロイトの黒人労働者の運動が紹介されておりました。『三重革命(トリプル・レボリューション)』というその宣言文の内容は残念ながら記憶の彼方なのですが、日本の労働組合が掲げていた「合理化反対」論とは対照的との印象が強く残っております。レーニンのIWW評価もそれに引きつけて読んだのだと思います。その後、このデトロイト黒人労働運動のリーダーの手になる『アメリカン・レボリューション』という小さな本が翻訳されたのですが(合同出版だったかしら)、残念ながらもう手許にございません(^^;。この潮流を今に引いているのが、下の「レイバー・ノーツ」グループかなと思うのですが。
 http://labornotes.org/index.shtml
 

RE:「進歩」と「反動」/「小ブルジョア的帝国主義批判」批判の「質」・2>鬼薔薇さま

 投稿者:蘇丹・加里耶夫  投稿日:2005年10月26日(水)02時18分35秒
  続きです。

さて、ではレーニンの「小ブルジョア的帝国主義批判」批判の意味を探っていくこととしましょう。

前回引用したアメリカ「反帝国主義」に関する記述のなかで、特に目を引くのが、

“ フィリピン領有をめぐる帝国主義対「反帝国主義」論争はアメリカの外交政策に関する最初の大きな論争であり、帝国主義者の唱える植民地支配をともなう海外膨張が支持を得ることになったが、「反帝国主義者」も膨張そのものに反対していたわけではなかった。「反帝国主義者」も、アメリカの経済的発展、民主主義およびプロテスタンティズムの世界伝播は支持していたのであり、それは政治的軍事的支配がなくても達成できると考えていたのである。一八九九年の「門戸開放宣言」は、列国の勢力圏下に置かれつつあった中国における自由な経済活動を主張していたが、それは政治的支配をともなわない海外膨張政策であり、「反帝国主義者」も含めた国民的合意を示していた。”

のくだりですね。この「膨張そのものに反対していたわけではなかった」「反帝国主義」の「アメリカの経済的発展、民主主義およびプロテスタンティズムの世界伝播は支持していたのであり、それは政治的軍事的支配がなくても達成できると考えていたのである。」という点は、まさに後の他の小ブルジョア的批判者−カウツキーを貫く批判点として現れます。

“そこで、カウツキーはこう推論している。「エジプトの軍事的占領がおこなわれず、たんなる経済的要因だけの力によったならば、エジプトとの貿易の増加はさらにより少なかったであろうと考えるなんらの根拠をも、われわれはもたない」。「拡張への資本の努力」は「帝国主義の暴力的方法でよってではなく、平和的民主主義によって、もっともよく促進される」。”(同書、岩波文庫版p.182)

そしてヒルファディングの文「金融資本の経済政策、すなわち帝国主義にたいするプロレタリアートの答えとなりうるものは、自由貿易ではなく、社会主義だけである。」を引用して、カウツキーの論をレーニンは次のように論断します。

“金融資本の時代に「反動的理想」、「平和的民主主義」、「たんなる経済的要因だけの力」を擁護することによって、マルクス主義と絶縁した、――というのは、この理想は、客観的には、独占資本主義から非独占資本主義へひきもどすものであり、一つの改良主義的偽瞞だからである。”(『帝国主義論』、p.183)

これ以降はこの点を具体に即してレーニンは論述を続けていくことになるのですが、それはカウツキー批判にのみとどまるものではなく、同時に同様の主張を行っている「小ブルジョア的帝国主義批判」をも串刺しして批判するものとなるわけです。そして「小ブルジョア的帝国主義批判者」においては“このような素朴さもなんらおどろくにたりない。それどころか、かくも素朴に見えることは、また帝国主義のもとでの平和を「まじめくさって」説くことは、彼らにとって利益でもあるのだ。”(同書、岩波文庫版p.181)であるものが、帝国主義にたいして「社会主義」を対置せず、“平和については「すべてのもの」(帝国主義者、えせ社会主義者、社会平和主義者たち)「が一致している」と主張した”(同書、岩波文庫版p.181−182)カウツキーにはより激越な批判となり、この章の最も重要な部分を成す事、鬼薔薇さんもご指摘の通りでした。

“「マルクス主義を少しも僭称しない」小ブルジョア的帝国主義批判者であれば「あどけない願望」ですむとしても、同じことを「マルクス主義」を標榜する者が主張するとなれば、それはまったく意味がちがう、というのが、続くカウツキー論難の激越さの根拠になってまいります。それは特殊カウツキーの問題を超えて、当時の社会主義者界全体の動向と、そのなかでレーニンが自らを立たせていた位置に関わる問題でございました。”(「進歩」と「反動」  投稿者: 鬼薔薇  投稿日:10月23日(日)22時52分33秒 )

さらには、前回レーニンの指し示す「プロレタリアート像」というものに対して推論を行ってみたましたが、このような見方が可能であるのであれば、レーニンの「小ブルジョア的帝国主義批判」批判というものは、随所で現れる(第8、9、10章)「労働運動の日和見主義的傾向」批判とも連動してゴンパース=AFLに代表されるような「小ブルジョア的帝国主義批判」をも撃つ別の含意を持つことが明らかになると思われます。

このゴンパース=AFLに代表されるような「小ブルジョア帝国主義批判」とはつまり「植民地からの労働者の流入が賃金の低下を招く、劣等なアジア人種を入れることによりアメリカ的なものが損なわれる」という観点からなされる批判ですが、他の「小ブルジョア的帝国主義批判者」たちも多かれ少なかれ持っているある種の「質」です。たとえばホブスン:

“……かくも巨大な寄生的搾取のためには、それぞれ各自の政府を動かしつつあるところの互に競争する事業家たちのグループも、彼らの競争を緩和し、そして彼らの企画を始めるに必要な暴力的手段に協力しさえするかもしれない。一度び鉄道と汽船便との交通網を以て中国を取り巻くならば、開拓さるべき労働市場の大きさは極めて巨大なものであるから、それは先進ヨーロッパ諸国及び合衆国が数世代にわたって供給し得るすべての余剰資本竝に事業活動力を、その開発上充分吸収するかもしれない。このような実験は帝国主義の方式に革命をもたらすであろう。西洋における政治及び産業界における労働階級運動の圧力に対抗して、中国商品の洪水が殺到し、その結果賃金を切り下げ勤勉を強要することが出来るであろう。或は、帝国主義的寡頭政治の権力が充分に確立されている処では、黄色労働者もしくは黄色傭兵軍の脅威によって右のことがなされ得るであろう。……”(ホブスン『帝国主義論』下巻 p.224−245)

“ しかし、このヂレンマから遁れる一つの抜け穴が姿を現わす。それは更に一層重大な危険を孕むところの逃げ道である。新帝国主義は、すでに観察してきたように、主として熱帯及び亜熱帯地方に関係したのであり、そこには多数の「劣等人種」が白人の支配下に置かれたのである。一層安い、一層多数の、そして一層よく同化された戦闘員を現地で募集することが出来、或は一つの熱帯領土から他へと移動させることが出来るのに、この帝国の攻防戦をイギリス人が戦わなければならぬ理由がどこにあろう。熱帯資源の産業的開発の労働が、白人の監督下でそこに居住する「劣等人種」に課せられているごとく、軍国主義がそれと同様に、黒色、もしくは茶色、もしくは黄色の人間がイギリス人士官の下でイギリス帝国のために闘うという基礎に立って、組織されてはならぬ理由がどこにあろう。彼らにとっては、軍事的訓練は「健全な教育」であるだろう。こうして我々は、我が国自身の限られた兵員を最もよく節約し、その大部分を国内防衛に残すことが出来るのである。この簡単な解決――安価な外人傭兵の雇傭――は新たな趣向ではない。「文明的な」武器によって武装され、「文明的な」方式で訓練され、「文明的な」士官によって指揮された厖大な土着民軍の編成は、大きな東方諸帝国の最後の段階の、そして後にはローマ帝国の、最も著しい特徴をなしていた。それは、最も危険な寄生策の一つであることを実証した。それによって本国の住民の生命及び財産の防衛が、野心的な地方総督によって指揮された「被征服種族」の当てにならない忠節に委ねられたのである。
 帝国主義の盲目性の最も奇異な特徴の一つは、イギリス、フランス及びその他の帝国的諸国民がこの危険な依存に乗り出した向う見ずな無関心にある。イギリスは最も甚しかった。我々が印度帝国を獲得した戦闘の多くは、土着民によって戦われた。印度においては、後年のエジプトにおけるように、大常備軍がイギリスの指揮官の下に置かれた。我がアフリカの領土と関係ある戦闘は、南部地方を除けば、殆んどすべて土着民によって我が国のために遂行された。これらの諸地方において使用されたイギリス兵の比率を、安全の最少限度ぎりぎりまで縮小したところの圧力がどんなに強くあったかは、印度の場合で充分に例証されている。即ち、南アフリカ事変の突発に際し、我々は印度において認められた最少限度を更に一万五千人以上減少せざるを得なかったと共に、南アフリカ自体においては、他の白人人種に対抗して闘うために、多数の武装土着民を使用するという、危険な先例をつくったのである。“(ホブスン『帝国主義論』下巻 p.34−35)

ここで、「帝国主義の脅威の可能性」として言われていることの裏返しの希求は、いわば先進資本主義国ないしはヨーロッパ全体での「一国主義的平和主義」ともいうべきものであり、「小ブルジョア的帝国主義批判」のなかで民主主義的傾向と平行して現れるものです。そして先のAFL的な「批判」は、これを「排外主義」レベルまで「高めた」ものと言えるでしょう。

「平和」を単に「平和」一般に還元するのではなく、「日和見主義労働運動」を単に抽象的思弁的な「日和見主義労働運動」へと単純化してしまうのではなく、「小ブルジョア的帝国主義批判」として現実的にたち現れる「一国主義的平和主義」「民族排外主義傾向を濃厚に持つ日和見主義労働運動」と捉えてこそ、レーニンの次の批判は“現実的切迫力”を持って私たちの前に現れてくるのではないでしょうか。

“イギリスの小坊主どもや甘ったるいカウツキーの善良な意図がなんであろうと、彼の「理論」の客観的な、すなわち現実の、社会的意味は、ただつぎの一事にすぎない。すなわちそれは、現代の先鋭な諸矛盾と先鋭な諸問題から注意をそらせて、なにか新しそうに見える将来の「超帝国主義」の虚偽の前途へと注意をむけさせることによって、資本主義のもとでも恒久平和が可能であるという希望をもって大衆を慰めようとする、もっとも反動的なものである。”(同書、岩波文庫版p.192)

“なおつけくわえておかなければならないことは、あらたに開発された国々ばかりではなく、古い国々でも、帝国主義は併合を、民族的抑圧の強化を、したがってまた抵抗の激化をもたらしている、ということである。カウツキーは、帝国主義による政治的反動の強化ということに反対しながらも、帝国主義の時代には日和見主義者との統一は不可能であるという、とくに緊急となった問題をぼかしてしまっている。彼は併合にたいして異論をとなえながら、その異論に、日和見主義者にとってもっとも気にさわらないでもっともうけいれやすいような形をあたえている。……”(同書、岩波文庫版p.197)

その意味では次の鬼薔薇さんの指摘はまさにその通りだと思いました。

“多くの「左派」が、さまざまな「反戦派」「反帝国主義派」の“統一”という志向にあったとき、「反帝国主義」なら何でもいい、といった政治的曖昧さでは「革命」の本筋を見誤るとする強烈な確信が、ここ第9章の第一、第二段切りの全叙述を貫いていると思います。そのように読むことによって、続く第三段切りのカウツキー批判が含意するところもより鮮明に浮かび上がるのではないかと期待しつつ、読み進めたく思います。”(第8章報告を顧みつつ第9章を読む  投稿者: 鬼薔薇  投稿日:10月21日(金)22時16分1秒 )

レーニンを「一国=一民族」的に読むのではなく、資本主義の世界性と連動する「世界=多民族」として読むこと、これが「日本左翼」のみならず世界のどの地域であっても「左翼/民族革命派」に求められているのだと思います(笑)。

次回の報告は来週中の予定です。
 
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RE:「進歩」と「反動」/「小ブルジョア的帝国主義批判」批判の「質」>鬼薔薇さま

 投稿者:蘇丹・加里耶夫  投稿日:2005年10月25日(火)04時42分26秒
編集済
  前々回第二段の報告を行なった時に、コメントを付けようかどうか少し迷ったのですが、鬼薔薇さんからいくつかコメントもあったので、今回は第三段の報告の続きをする前に第二段のコメントを鬼薔薇さんのコメントにレスをする形で行いたいと思います。よって第三段の報告の続きは次回以降とします。

>たとえば米西戦争を契機に登場したアメリカの「反帝国主義者」――“この戦争を「犯罪的」戦争と呼び、他国の土地の併合を憲法違反と考え、フィリッピン土人の首領アギナルドにたいする取り扱い……を「排外主義者の欺瞞」だと宣言し”(岩p.180/国p.144/濤p.181-2)たこの勢力が、政治的に「反動」であるわけもございません。それは、帝国主義が「有産階級」の内に産み出した反対派であり、政治的には「進歩」の側に属すること、疑いなきところでございましょう。

前々回コメントをするかどうか迷ったのは、アメリカの「反帝国主義者」を代表とする「小ブルジョア的帝国主義批判」にたいするレーニンの評価をどのように判断するか、逆にいえば「小ブルジョア的帝国主義批判」をどの点でレーニンは批判しているのか、という点についてなのですね。どうも関係書を読んでいるうちにレーニンの「批判」というものは、通常考えられているような形では捉えきれていないようなものがあるのではないか、と思い、自分の中で整理がつくまではコメントを先延ばしにしようと思ったのです。

まず、マルクス主義の視点に基づいているとはいえないアメリカ史研究者の文章の中から1898年米西戦争終了後の当のアメリカ「反帝国主義者」に関する記述を見てみましょう。

“ 一二月に締結されたパリ平和条約は、キューバの独立を認め、プエルトリコはアメリカに割譲された。太平洋のグアム島もアメリカの領有となり、フィリピンもアメリカに引き渡された。批准のために上院に送られた条約はアメリカ国内に大きな議論を巻き起こすことになったが、その争点はフィリピンを領有するか否かをめぐる問題だった。もともとフィリピンの占領はフィリピンを海外発展のための拠点とするために行われたのであるが、フィリピンでは初めアメリカ軍をスペイン支配からの解放者として歓迎した。しかし、自らが新たな支配者になろうとするアメリカの意図が判明するとすぐに、アメリカに対する反乱が起こった。アメリカ国内では、フィリピン領有がアメリカの共和国理念に悖るとして強い反対が起こった。フィリピン領有に反対する「反帝国主義者」はアンドルー・カーネギーのような実業家から、作家のマーク・トゥウェイン、労働運動の指導者ユージン・デブズやサミュエル・ゴンバーズ、民主党のウィリアム・ジェニングズ・ブライアンなど様々な立場の人々を含み、その反対の理由も多様であった。植民地を持つことはアメリカの民主主義の原則に反する、植民地からの労働者の流入が賃金の低下を招く、劣等なアジア人種を入れることによりアメリカ的なものが損なわれるといったように、「反帝国主義」には理想主義だけではなく人種差別意識も含まれていたのである。「反帝国主義」も非「アメリカ的」要素を排除する当時隆盛にあったネイティヴィズムと無関係ではなかった。帝国主義者は、前述の「明白な運命」やソーシャル・ダーウィニズムにもとづいてアメリカの海外領土獲得を支持していた。結局フィリピン領有を含んだパリ条約は上院で批准され、アメリカは海外に領土を持つ帝国となった。
 フィリピン領有をめぐる帝国主義対「反帝国主義」論争はアメリカの外交政策に関する最初の大きな論争であり、帝国主義者の唱える植民地支配をともなう海外膨張が支持を得ることになったが、「反帝国主義者」も膨張そのものに反対していたわけではなかった。「反帝国主義者」も、アメリカの経済的発展、民主主義およびプロテスタンティズムの世界伝播は支持していたのであり、それは政治的軍事的支配がなくても達成できると考えていたのである。一八九九年の「門戸開放宣言」は、列国の勢力圏下に置かれつつあった中国における自由な経済活動を主張していたが、それは政治的支配をともなわない海外膨張政策であり、「反帝国主義者」も含めた国民的合意を示していた。”(『アメリカの20世紀』 有賀夏紀著 中公新書 2002 上巻p.57−59)

この記述に即する限りでは、「反帝国主義」というものが「純粋民主主義」的にアメリカのフィリピン領有に反対したという側面と、“非「アメリカ的」”なるものへの排除への延長線上でフィリピン領有に反対した側面とがあるのがわかります。さらには、「反帝国主義者」自身アメリカの当時の労働運動の指導者であるユージン・デブズ(アメリカ鉄道労働組合初代委員長――プルマン・ストライキの当事者―で、後のアメリカ社会党の大統領候補)―やサミュエル・ゴンバーズ(アメリカ労働総同盟―AFLの指導者)をも含んでいたことがわかります。そうであるとすれば、この「反帝国主義者」というものは純粋に「ブルジョア・小ブルジョア」から構成されていたというのではなく、言ってみれば「ブルジョア・小ブルジョア反対派+労働運動」の連合体という感じですね。

ところで、「反帝国主義者」の“非「アメリカ的」”なるものへの排除という側面を「植民地からの労働者の流入が賃金の低下を招く、劣等なアジア人種を入れることによりアメリカ的なものが損なわれる」という面で代表するかと思われる、サミュエル・ゴンパースのアメリカ労働総同盟のアジア系労働者、特に中国人への排斥運動についての記述を引用してみましょう。

“ AFLは、1866年に、合衆国カナダ労働組合総同盟The Federation of Organized Trades and Labor Unions of the United States and Canadaを主な母体として、葉巻工組合のサミュエル・ゴンパースSamuel Gompersたちによって創設された。オハイオ州コロンバスで開かれたその第1回大会においてすでに、AFLは中国人排斥法The Chinese Exclusion Actの「厳格な履行」を政府に要求する決議を採択し、アジア系移民排斥の姿勢を明確にした。
 中国人排斥法は1882年に、10年間の時限立法として制定された。合衆国が特定地域からの移民を包括的に法律によって禁止したのはこの中国人排斥法が最初である。
 中国人移民に対する排斥は1880年代、90年代を通じてますます強化されていった。すなわち、1888年には中国に一時帰国した人々の合衆国への再入国を規制するスコット法が、1892年には中国人労働者の入国禁止をさらに10年間延長するとともに、すでに入国している中国人労働者は1年以内に「登録」しなければ国外に追放するというギアリー法が制定されている。さらに1902年の改正によって、中国人排斥法は時限立法ではなく恒久的な法律となった。
 この間、AFL指導部は一貫して中国人排斥運動を推進し、このような立法の原動力であり続けたのである。1898年の米西戦争による海外領土の獲得以降は、プエルトリコはもとよりハワイ、フィリピンなどからの中国人、日本人の追放までもが彼らの主張となった。1905年の大会でゴンパースはハワイの戦略的重要性を強調し、ハワイにおけるアメリカ人、ヨーロッパ人の人口比率は小さすぎる、ハワイを白人化、アメリカ化するために真剣に努力する必要があると主張したのである。
 当時のAFLの指導者の多くは移民の出身であった。ゴンパースもまたイギリスからの移民で、民族的にはユダヤ系であった。しかしながら彼らは、中国人を自分たちヨーロッパからの移民と同様に扱うことなど夢想だにしていなかった。1894年に当時の副大統領アドライ・スティブンソンにあてた書簡のなかで、ゴンパースは次のように述べている。「中国人がアメリカにおいて我々と統合したり同化したりすることが不可能であるということはここで議論する必要はありません。そのことはあまりにも明白なので私が説明するまでもありません。」
 彼らが中国人に代わって合衆国に移住を開始した日本人労働者を警戒し排斥したのは当然であった。”(『アメリカ労働運動と日本人移民』黒川勝利著 大学教育出版 1998 p.11−12)

というように、ゴンパース=AFLはこのような中国人排斥論の延長線上でアメリカのフィリピン領有に対し反対したのだと思われます。レーニンは「反帝国主義者」に「民主主義的」側面だけを見てこのような「排外主義的」側面に気づかなかったのでしょうか。
__________________________________________________________________________________________

私は最初レーニンはアメリカの状況をよく知らなかったので、その辺を大まかに「反帝国主義者」=「民主主義的反対派」と理解したのだと思っていたのですが、鬼薔薇さんから紹介いただいた小文「資本主義と労働者移民」を読んで《再論:レーニン「資本主義と労働者移民」について>鬼薔薇さま》を書いた後に、「いや、もしかするとレーニンはある程度はアメリカの状況を理解した上でこう書いたのかもしれない」と思うようになったのですね。

それは、この『帝国主義論』でいえば第八章と第九章の記述の構造をどう理解するかがポイントになるような気がするのです。まず第八章でいうと、

“金利生活者国家は寄生的な腐朽しつつある資本主義の国家であり、そしてこの事情は、一般的にはそれらの国のあらゆる社会政治的諸条件のうえに、特殊的には労働運動における二つの基本的な潮流のうえに、反映しないではおかない。”(同書、岩波文庫版p.163)

“だが、ただ一つ忘れてはならないことは、一般的には帝国主義にたいして、特殊的には日和見主義にたいして、反抗しつつある勢力のあることである。これらの勢力は、当然、社会自由主義者のホブスンの目にははいらないのである。”(同書、岩波文庫版p.169)

このくだりの「日和見主義にたいして反抗しつつある勢力」というのを、私は以前はレーニンがボリシェヴィキ自身のことを言っているのか(笑)、または抽象的に「本来の、あるべきプロレタリアート」のことを言っているのか、と思っていたのですが、もしレーニンがアメリカの状況をある程度把握しているのならこれはそう読むべきではなく、具体的にはAFL/IWWの対立構造を踏まえたうえで、このような日和見主義労働組合と戦闘的労働組合の階層構造的な分裂が資本主義の世界性からしていずれどの先進資本主義国でも起こるであろうことを念頭において言っているのではないか、と思えるのです。であればこそ、この章で日和見主義と対置される形では描かれていない「日和見主義にたいして反抗しつつある勢力」の代わりに次の文章が置かれているわけです。

“もし帝国主義の「功績」が「ネグロに労働を教えこむこと」(強制なしではすまされない……)にあるとすれば、帝国主義の「危険」はつぎの点に――すなわち、「ヨーロッパは、肉体労働を――最初は農業労働と鉱山労働を、のちには下賎な工場労働をも――黒色人種の肩におわせ、みずからは金利生活者の役割に安んじ、それによって、おそらく、銅色人種や黒色人種の経済的解放を、のちにはさらにその政治的解放をも準備するであろう」という点にある。”(同書、岩波文庫版p.179)

“右に述べられている一群の現象と関連する帝国主義の諸特質に属するものとして、帝国主義諸国からの移住民の減少と、これらの諸国への、労賃のより安い、おくれた国々からの移住民(労働者の流入と一般人の移住)の増大とがある。…(中略)…合衆国では、東ヨーロッパと南ヨーロッパからの移住民は労賃のもっとも低い地位をしめているのに、アメリカ人の労働者は、監督に昇進してもっとも高い労賃をえているもののなかで最大の比率をしめている。帝国主義は、労働者のあいだでも、特権をもつ部類を遊離させ、これをプロレタリアートの広汎な大衆から引きはなす、という傾向をもっている。”(同書、岩波文庫版p.172−173)

もし、このような仮定が正しいのであれば、第九章のアメリカ「反帝国主義者」批判のくだりの“だが、この批判全体が帝国主義とトラストとの、したがってまた資本主義の基礎との不可分の結びつきをみとめることをおそれ、また大規模資本主義とその発展とによってうみだされる諸勢力に味方することをおそれていたかぎりで、この批判は「あどけない願望」にとどまったのである。”(同書、岩波文庫版p.180)の中の“大規模資本主義とその発展とによってうみだされる諸勢力に味方することをおそれていた”という「“諸”勢力」とは抽象的な「世界プロレタリアート」というよりかは、またもちろんそれ自身が「反帝国主義者」に参加しているアメリカ人労働者階級でもなく、アメリカ帝国主義の海外膨張が生み出す「植民地からの労働者の流入」「劣等なアジア人種を入れる」ことがもたらす新たな形での労働運動・革命運動(つまりIWW型の、低所得移民を包摂した)や植民地解放運動等というように具体的に読み込むことが可能になるのではないでしょうか。それは「資本主義と労働者移民」でのこの文章とも対応していると思うのですね。

“ 疑いもなく、極度の貧窮だけが人々に祖国を棄てさせる、そして資本家は破廉恥きわまるやり方で移住労働者を搾取する。だが、この現代の民族移動の進歩的な意義に目をつぶることのできるのは、反動派だけである。資本の重圧からの解放は資本主義のいっそうの発展をはなれては、この発展にもとづく階級闘争をはなれてはないし、またありえない。そして資本主義は、地方生活の無気力と時代おくれをうちくだき、民族的な障壁と偏見をうちこわし、アメリカ、ドイツ、その他の巨大な工場や鉱山で万国の労働者をひとくるめに結合し、世界の勤労大衆をまさにこの階級闘争にひきいれているのである。”

(続く)
 

「進歩」と「反動」

 投稿者:鬼薔薇  投稿日:2005年10月23日(日)22時52分33秒
編集済
  ここ第9章第二段切りでは、各地に登場する「帝国主義にたいする小ブルジョア的=民主主義的反対派」を「小ブルジョア的、改良主義的な、経済的には根本から反動的
な」と形容し、「この反対派に反対しようと心がけず、また反対できなかったばかりでなく、逆に実践のうえで彼らと融合した」点をもって、「カウツキーおよびカウツキー主義の広い国際的潮流がマルクス主義と絶縁した」メルクマールとしていること、テキストにみるとおりでございます(岩p.179-80/国p.144/濤p.181)。

レーニンが他者の言説を「反動(的)」と論難することしばしばで、ここもその一例なわけですけど、この「反動(的)」なるレーニンの用語法は必ずしもいつも同じ意味ではないこと、解読に注意が必要と存じます。たとえば「あらゆる方面にわたる反動と民族的抑圧の強化とは帝国主義の政治的特質である」(岩p.179/国p.144/濤p.181)というときの「反動」が“政治的”反動であるのに対し、上で「「帝国主義にたいする小ブルジョア的=民主主義的反対派」を「経済的には根本から反動的」というときには“経済的”〜思想的な意味、言い換えますとその「帝国主義」批判の軸の取り方にあること、ここを区別して読み取っておくことが重要と思います。この区別の有無は、第9章を単なる党派的論難のセクションとみるか、それともそこに独自のイデオロギー論の価値を見出すか――さらには『帝国主義論』そのものを、凡なる党派文書とみるか、階級的危機の時代に対する革命的態度決定の理論的一礎石とみるか――の分岐につながることでしょう。

ここでのレーニンの基準は明確でございます――「帝国主義の基礎の改良主義的改変は可能かどうか、事態は帝国主義によってうみだされる諸矛盾のいっそうの激化と深化へむかって前進するか、それともその鈍化へむかって後退するかという問題は、帝国主義の批判の根本問題である」(岩p.179/国p.144/濤p.181)。“「帝国主義」批判認識の軸の取り方”と申すゆえんでございます。

この基準に照らして「経済的には根本から反動的」というのは、資本主義の発展が不可逆な過程であるという「自然法則」に逆らって、古き良き資本主義への回帰を夢想する発想に投げかけられた言葉ですね。かつてそれはロシアにあってナロードニキ派との思想闘争のメイン・テーマでございました。今ここでそれが「小ブルジョア的帝国主義批判」に向けられるわけでございます。これ、実はすでに第1章で予告済みのことでしたね――「われわれは後に、資本主義的帝国主義にたいする小市民的=反動的批判が…どのようにして「自由な」、「平和な」、「公正な」競争への復帰を夢みているかを見るであろう」(岩p.45/国p.35/濤p.45)。

たとえば米西戦争を契機に登場したアメリカの「反帝国主義者」――“この戦争を「犯罪的」戦争と呼び、他国の土地の併合を憲法違反と考え、フィリッピン土人の首領アギナルドにたいする取り扱い……を「排外主義者の欺瞞」だと宣言し”(岩p.180/国p.144/濤p.181-2)たこの勢力が、政治的に「反動」であるわけもございません。それは、帝国主義が「有産階級」の内に産み出した反対派であり、政治的には「進歩」の側に属すること、疑いなきところでございましょう。にもかかわらずそうした勢力の批判が「帝国主義」と「資本主義の基礎」との“不可避の結びつき”を認めず、「帝国主義に自由競争と民主主義を対置し、紛争と戦争とにみちびくバグダッド鉄道の画策を非難し、平和にたいする『あどけない願望』を表明し、等々している」(岩p.181/国p.145/濤p.183)かぎりで、その思想的立場は“経済的には反動”とみなされるわけでございます。

「反動」という用語法の以上のような区別認識なしにここを読んでしまえば、巨大金融資本も帝国主義ブルジョアジーも「小ブルジョア的反対派」も、ひとしなみ「反動」に括りこんで政治的な「敵」規定を与えるという(後代の「社会ファシズム論」につながる)左翼独善主義の文脈にレーニンを置いてみたり、「レーニン主義」をそのようなものとして拒絶・否定してみたりする(当節流行りの)議論に陥りましょう。けれども、「進歩対反動」という単線的対立図式こそ「小ブルジョア的」価値観念そのものであり、少なからぬ左翼がそうした観念図式の中でレーニンや「レーニン主義」を称揚したり否定したりという振動を繰り返してきたのではなかったでしょうか。レーニンの企図に“第二インターの痼疾だった進歩主義史観”からの飛躍をみるジジェクの視点は、そうした陰陽の「レーニン」像からの脱却を射程にしているものと思いますし、この点での第9章のテキスト解読は、これまでの左翼に厳しい自己点検を迫るものでございましょう。

「マルクス主義を少しも僭称しない」小ブルジョア的帝国主義批判者であれば「あどけない願望」ですむとしても、同じことを「マルクス主義」を標榜する者が主張するとなれば、それはまったく意味がちがう、というのが、続くカウツキー論難の激越さの根拠になってまいります。それは特殊カウツキーの問題を超えて、当時の社会主義者界全体の動向と、そのなかでレーニンが自らを立たせていた位置に関わる問題でございました。

「問題は戦争をやめさせることだと、彼ら〔社会主義者〕は論じた。彼らは戦争の勃発にはさまざまな原因があると言う。この問題について彼らが書いた多くのパンフレットでは、人的、外交的、経済的、帝国主義的等々の要因が挙げられていた。これらパンフレットの筆者は、多くが単純な平和主義者であった。『ヨーロッパの内戦』を唱えるレーニンは、痛む親指のような突出した存在であった」(R.サーヴィス『レーニン』、河合訳・上、p.326)。
 

第8章報告を顧みつつ第9章を読む

 投稿者:鬼薔薇  投稿日:2005年10月21日(金)22時16分1秒
編集済
  この第9章の眼目は要するにカウツキー批判の第三段切りにあり、第一、第二段切りはそれへのいわば序にすぎないと読んでしまうと、単なる「党派文書」になってしまうのですが、第一、第二段切りをレーニンのイデオロギー論(そのなかにカウツキー批判を据え直したもの)として読むとなかなか興味深くかつ刺激的ですね。

第一段切りでは「帝国主義イデオロギーは労働者階級のなかへもしみこんでいる」(岩p.177/国p.142/濤p.178-8)と、プロレタリアートのイデオロギー的分解を指摘し、また第二段切りでは「あらゆる方面にわたる反動と民族的抑圧の強化」から「帝国主義にたいする小ブルジョア的=民主主義的反対派」(岩p.179/国p.144/濤p.181)が登場している事実が指摘されます。この後者は「いっさいの所有者階級を全般的に帝国主義のがわに移行させるに至っている」(岩p.177/国p.142/濤p.178)との第一段切りの記述と照合するなら、非プロレタリアートの側でもまたイデオロギー的分解が進行していることの指摘にほかならぬと理解できましょう。すなわちここでレーニンは、抽象的な「資本対労働」という(経済主義的に理解された)「階級対立」の図式にイデオロギー対立を重ね合わせるという方法を拒否し、イデオロギーが「階級」を断ち割るような作用を見定めたうえで、あらためて階級としてのプロレタリアートを定位しようとしているのだと思います。

そのような作用を生み出した条件が「帝国主義」そのものにほかなりません。ここで先の第8章の末尾を読み返しましょう。「イギリスの全一的な独占にかわって、われわれは少数の資本主義列強のあいだでの、独占に参加するための闘争を見るが、この闘争こそ二〇世紀の全初頭を特徴づけるものである」(岩p.175/国p.141/濤p.177)。ここ第9章第一段切りはこれを直接に引き継いでおります。すなわち、「一方では……少数者の手に集中されている巨大な規模の金融資本、他方では、世界の分割と他国にたいする支配のための、他の民族的=国家的金融業者団との激烈な闘争」(岩p.177/国p.142/濤p.178)――まさしくこの闘争が爆発的に表出したところの戦争がヨーロッパ全域を巻き込み世界を震撼させている、そのさなかにこの小冊子は書き綴られました。ここの叙述は、危機におけるイデオロギーの作用というものの独自性を取りあげたものと読むことができるし、またそのように読んでこそ、第8章の叙述の意味もより具体的に理解することができると存じます。先のわたしの報告で明らかに理解が足りなかった点でもあったこと、顧みて「読み」の不足を反省せねばなりません。

社会主義運動の先進国ドイツの理論的指導者カウツキーをある意味「師」と仰いできたレーニンは、“抽象的な「資本対労働」という(経済主義的な)「階級対立」の図式にイデオロギー対立を重ね合わせるという方法を拒否”したときに、カウツキー理論の基本をなす“第二インターの痼疾だった進歩主義史観”(ジジェク)から自己の「マルクス主義」を方法的に区別したのではないでしょうか。それはまた同時に、眼前の危機に、単なる政治的危機を超えた「革命的危機」を見出すべき「マルクス主義」の政治思想的位置を見定める作業でもございました。ここに、戦時下「ボルシェビズム=革命的マルクス主義」をひとり体現したレーニンの独自の位置があったのだと存じます。この独自性は、「帝国主義戦争を内乱に転化せよ!」のスローガンに集約され、またこのスローガンを実践的に担う「党」の独自性として組織的に表現されます。ここから「四月テーゼ」まで首尾一貫した態度こそ、メンシェビキはいうまでもなく、左翼社会主義の「統一」に腐心したトロツキーとも、それどころか自党ボルシェビキの多数派とさえも対立し(クルプスカヤにさえ「きちがい」扱いされ)つつ貫徹されたこの時期の「レーニン主義」でございました。ジジェク『迫り来る革命』が序に言う「絶望」「断絶」「狂気」の革命政治的意味、ここに見出してしかるべきところと存じます。

多くの「左派」が、さまざまな「反戦派」「反帝国主義派」の“統一”という志向にあったとき、「反帝国主義」なら何でもいい、といった政治的曖昧さでは「革命」の本筋を見誤るとする強烈な確信が、ここ第9章の第一、第二段切りの全叙述を貫いていると思います。そのように読むことによって、続く第三段切りのカウツキー批判が含意するところもより鮮明に浮かび上がるのではないかと期待しつつ、読み進めたく思います。

追:いただいたコメントへのレス、ちょっとお時間くださいませね>蘇丹・加里耶夫さま
 

再論:レーニン「資本主義と労働者移民」について>鬼薔薇さま

 投稿者:蘇丹・加里耶夫  投稿日:2005年10月19日(水)00時45分39秒
  >この「移民」(労働移動)のなかに「国民」の分極化が(単色的な「階層分解」にとどまらぬ“民族”分解を含んで)露出するとのご指摘ですね。貴重なご注意と読ませていただきました。この点からしますと、日本の場合、満州などの植民層の敗戦帰国が戦後の日本社会にもった(隠された)意味をも考えていくことにつながりましょうか(三里塚も)。

はい。もちろん日本の植民者の場合はその圧倒的多数は日本の帝国主義的行動を熱烈に支持したのですが(例:満洲青年連盟)、この熱烈に支持したということの中に該地で民族矛盾に晒された植民者の心理状態を見ることもできるかと。そして日本人のごく少数ですが、その民族矛盾のなかから内地の人間より鋭い観察眼を持って、日本の帝国主義批判を行った人もいるわけです。(たとえば個人では朝日新聞上海支社の記者であった尾崎秀実、東亜同文書院の学生だった中西功、そして鈴江言一など。台湾育ちであった神山茂夫ももしかしたらそうかも知れないですね。集団では日本人民反戦同盟や、これはたいしたものではないらしいですが日本共産党満洲地方委員会など)

中国以外ではこんな例も。

http://www.nanzan-u.ac.jp/GAIKOKUGO/Asia/malaysia/9.htm

http://www.kaze.gr.jp/fwvietnam/fwvietnam2001/fwviet2001top.htm (一番終わりのほうです。)

>ここでいう「反動派」は、ちょうどご報告進行中の第9章での批判を解読するにも重要なタームと思います。ただわたし、それを1900年代のナロードニキ批判ですでにレーニンの中で完成していた批判基軸という面でしか読めておらず、ここからアメリカIWWへの視点につながる筋道を読みとることができずにおりました。ここはまた少し立ち入ったご説明をいただきたい点に思います。というのも、レーニンの「革命」構想を理解するに、産業=労働関係の彼の視点が大事だと思いますので。

確か鬼薔薇さんからレーニンのIWWの評価のことを聞いたのではないか、と思ったんですけど(笑)、別のところだったかもしれません。ただ、別の文章に当たらずともこの文章の中でもそれは明白で、“ 昨年出版された、きわめて教訓に富んだ英語の書物『移民と労働』の著者グールヴィチは、興味深い観察をしている。1905年革命ののちにアメリカへの移民の数〔総数〕はとくに増加した(1905年―100万、1906年―120万、1907年―140万、1908年、1909年―190万ずつ)。ロシアであらゆるストライキを経験してきた労働者は、〔旧移民より〕いっそう勇敢な、攻撃的な、大衆的なストライキの精神をアメリカへもちこんだ。”“ブルジョアジーは、ある民族の労働者を他の民族の労働者にけしかけ、彼らをたがいに分裂させようとつとめている。自覚した労働者は、資本主義があらゆる民族的隔壁をうちくだくことが不可避であり進歩的であることを理解し、他国出身の同志たちの啓蒙と組織化をたすけようとつとめている。”という言葉の意味は具体的にはIWWとその闘争を指しているはずです。IWWは1905年設立ですし、新移民を中心に組織されたのですから。

ここに見えるレーニンのプロレタリアート像というものは、移民中心のアメリカだけではなくドイツの事例も引き合いに出されていることからしても決して「一国=一民族」ではないことに注意すべきでしょう。先進資本主義国に多くの外国人労働者(もしくはエスニックな出自の)が存在し、ますます増加していること、そしてそれ自体が「進歩的」であるとしていることは、『帝国主義論』第9章のもう一つのヒルファディングの引用部分も考えれば、帝国主義に対する革命主体に関するレーニンの構想が決して第二インター流の単層的な「一国=一民族革命の寄せ集め」ではないことが明らかだと思うのですが。

“ 疑いもなく、極度の貧窮だけが人々に祖国を棄てさせる、そして資本家は破廉恥きわまるやり方で移住労働者を搾取する。だが、この現代の民族移動の進歩的な意義に目をつぶることのできるのは、反動派だけである。資本の重圧からの解放は資本主義のいっそうの発展をはなれては、この発展にもとづく階級闘争をはなれてはないし、またありえない。そして資本主義は、地方生活の無気力と時代おくれをうちくだき、民族的な障壁と偏見をうちこわし、アメリカ、ドイツ、その他の巨大な工場や鉱山で万国の労働者をひとくるめに結合し、世界の勤労大衆をまさにこの階級闘争にひきいれているのである。”

ちなみに同時期アメリカのユダヤ人労働運動の例を出してみましょう。

“……(ユダヤ人)労働運動の高揚にいたるさらに重要な要因は、一九〇五年から第一次世界大戦にかけてのユダヤ移民の飛躍的増加であった。一〇年間に一一〇万を超えたユダヤ移民は、それ以前の移住者とは質的に異なっていた。多くの者が政治意識において旧移住者を凌駕しており、もはや「無常な搾取の容易な餌食」ではなかった。ロシアでは工場労働者としての訓練をうけたユダヤ人が増加したことのほかに、「第一次ロシア革命の火によって、あるいは民族的誇りの覚醒によって、自己変革をとげた」若い男女が多数含まれていたからである。
 ロシアからもちこまれた革命的活動の雰囲気が、ニューヨークのユダヤ人地区をわきたたせることになった。リッシンによれば、ロシアの五〇〇万のユダヤ人の解放闘争と平行して展開されたアメリカのユダヤ人労働運動は、労働組合運動以上のもの、すなわち動乱のなかのユダヤ人世界の熱望を代表するものであった。こうしてニューヨークのユダヤ人社会の中心としてのロワーイーストサイドは、どんな新思想も歓迎されぬことはない「流動する一つの精神状態」にまでなったのである。”(『ユダヤ移民のニューヨーク』野村達朗著 山川出版社 1995 p.181−182)

>在日朝鮮人組織(民戦、祖防隊)文書については、70年前後の資料誌『世界革命運動情報』(レボルト社)が何度か特集しておりました。ここは、60年代新左翼と日本共産党を相対化する上でも避けて通れない歴史経験と思いますし、そこをやり過ごしての「新旧左翼仲良し路線」など欺瞞の上塗りにすぎぬと思います。

いわゆる「戦後革命」の終焉と55年体制の成立が重なるわけですが、良くも悪くも「大日本帝国」の「後始末」であった「戦後」を放逐した形での「一国=一民族主義」というタームを後の「学連新党」=第1次ブントや新左翼も前提としていたのではないでしょうか(社共はいうまでもなく)。逆にいえば華青闘告発を生み出すのも、それに「衝撃」を受けるのも新左翼が「一国=一民族主義」的認識であったからとも言えます。50年代中ごろに日本共産党から離脱したとはいえ、この間在日朝鮮人も在日中国人も日本から存在しなくなっていたわけではないのですから。
 
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