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こんにちは。
IWWといえば、一九六九年のウッドストック・フェスでジョーン・バエズが歌った、スゥエーデン出身のジョー・ヒルが処刑されたのが一九一五年一一月一九日。没後九〇年になるのですね。
バエズの歌にも織りこまれていたジョー・ヒルの有名な遺言が「DON'T MOURN BUT ORGANIZE」。
もっともアレン・オースチンによれば「「ウォブリーズ」たちは、組合の組織者としてはまずかった」。が「ストライキの指導者としてはすばらしかった。彼らは能率のいい、民主的なストライキ委員会をつくり、組合員大衆が一切のストライキ活動に参加することを奨励した。彼らはことばのちがったそれぞれのグループのために別々の新聞やパンフレットをだしたり、ストライキに参加しているそれぞれの民族のなかから指導者を育てあげてこれを承認したり、移民労働者とほかの労働者との敵意を強めないで、彼らを団結っせたりすることによって、一般には分裂させられている移民労働者の仲間を団結させることに成功した」(アレン・オースチン著/雪山慶正訳『アメリカ労働運動の歴史』青木書店)とのこと。
米国。個人的には、一九三〇−四〇年代のウディ・ガスリーの動きへの興味がありました。
「30年代に”ダスト・ストーム”が吹き始めるに先立っては、白人入植者による過度の農地化の時代があった。これにより、痩せた表土は砂塵化し、それに34年から36年にかけての炎暑と強風が相俟って、時には、高さが2,000メートル、幅が150キロ、長さが1,000キロにも及ぶ、巨大な砂の壁を現出した。そうした砂嵐は、平原を通過するうちに次第に濃度を増し、視界が1メートルにも達しないこともあった。//こうした砂嵐は、南部の人々に様々な悪影響を及ぼした。農作物は全滅、家畜は飢え死に、砂塵と炎暑による肺炎が人々に蔓延し、多くの人がカリフォルニアか北部の州に移住を余儀なくされた。これらが”砂嵐避難民(Dust Bowl Refugees)”と呼ばれた人々である」(RCA盤ウディ・ガスリー『リジエンダリー・パフォーマー』へのキース・マンロー(小山さち子訳)による解説。)。
「我々を大恐慌時代のアメリカ南部の旅へと誘ってくれる」、「1930年代の”グレート・ダスト・ストーム(砂塵嵐)”期のオクラホマ放浪農民の、絶望と気概をよくとらえ」(同上)たウディ。
その彼の「ニュー・ディール」への積極的なかかわり。四一年五月に、有名なテネシーのTVAと同じWPAのダム建設計画のひとつBPAのグランド・クーリー・ダム・プロモーション用映画に参加。
そして四一年一〇月。「死者たちの名前を言ってくれ、死者たちの名前を言ってくれ//ルーベン・ジェイムズ号に君の友だちは乗っていなかったのか?」のコーラスを持つ、真珠湾以前、Uボートに撃沈された米国商船隊のルーベン・ジェイムズ号の115名の死者たちを歌った「The Sinking of the Reuben James」。いくら聞いても「戦意高揚ソング」にしか聞こえなかった。
ウディのギターに "This Machine Kills Fascists" と書かれてあったのは有名なはなしだが、F.D.ルーズヴェルトの米国にとって、「ファシスト」とは明確な像を結ぶ「指さすことのできる」言葉だった。
ウディ自身のスタンスはあくまで「放浪詩人」でも、それがかつての「オクラホマ放浪農民」を含む「ウルトラ化」した大衆の「草の根」からの動員体制の動きに、どのように噛んでいったのか。
将棋のコマが一斉に裏返ってゆくイメージ。もとのコマに応じて裏側の文字も異なってくるが、コマひとつひとつの固有性以上に、一九三〇−四〇年代という時代、その時代に一斉にあらわれたかのような裏返りの構造に興味があったわけです。「スターリニズム、ナチズム、ニューディール」のくくりはポラニー『大転換』絡みで使われることが多いのかな、でもこの意味でこのくくりも受容できました。
それでは。
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